『アップサイド・ダウン』

『アップサイド・ダウン クリエイションレコーズ・ヒストリー』

1980年代から90年代にかけてのUKインディーズレーベルの雄、クリエーションの盛衰を描いたドキュメンタリー。

いつも斜め上の映画の見方をしているような気がするが、今回はさらにそういう感じが強いことを最初にお断わりしておきます。


オープニングでジーザス&メリーチェインの「アップサイドダウン」のキーンという金属音的ノイズが鳴り響くところですっかりあがってしまったりもしたのですが、進むうちに微妙な違和感というものもわいてきた。

クリエイションにとって頂点ともいえるのがプライマル・スクリームの『スクリーマデリカ』、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインの『ラヴレス』、ティーンエイジ・ファンクラブの『バンドワゴネスク』を同時期にチャートに送り出した91年であっただろう。
個人的にはこの場面が意外とカタルシスというもを与えてくれなかったのである。

クリエイションを成功に導いたのはアラン・マッギーのエキセントリックなキャラクターに独自の審美眼、そして何より優れた勘を持っていたことがあげられるだろう。
プライマルのボビー・ギレスビーとの出会い、クリエイションの立ち上げ、大手レーベルとのバンドの争奪戦での勝利、そして成功という流れを考えればもっと興奮してもよかったように思うが、僕がなぜあの場面に今ひとつ乗れなかったのかというと、そこまでの経路が「平板」なもののように感じてしまったからだ。

「歴史は繰り返す、一度目は悲劇として二度目は笑劇として」とは今さら引用するのも気の引けるマルクスの言葉であるが、マッギーやクリエイションにも当てはまるのかもしれない。
ジザメリのメンバーは必ずしも暴力的ではなかったにも関わらずマッギーが暴力的イメージを煽ったという場面があるが、ここらへんはひたすら顰蹙を買うことを目指したセックス・ピストルズにおけるマルコム・マクラーレンを思い起こさせる。クリエイションの盛衰の歴史もやや先輩にあたるファクトリーと多くの部分でダブる。

別に繰り返しだから駄目だ、価値がないというのではない。ポスト・モダンを通過してしまった身としてはオリジナリティーという概念自体を疑わねばならない。
問題は視座である。少なくともこの映画では、笑劇を演じているという自己諧謔的視点というのが欠けている(あるいは不足している)。そこが「平板」と感じさせるところであり、苦労話や面白エピソードは満載なのだが、葛藤というか深みというものが意外と感じられない。かといって「軽やかに時代を駆け抜けた」風かというとそれとも異なっている。

本作で特徴的だったと思えるのは階級的視点がほぼなかったことだ。正確にいうといくつかほのめかされてはいたが前景化はされていない。
そのほのめかしの一端がサッチャーの退任会見の「私が就任する前よりもイギリスはずっといい国になりました」という音声に暴動を鎮圧する映像が重ねられる場面である。80年代のイギリスといえばなんといってもサッチャリズムであり、単に政治的に留まらず文化的問題でもある。最後に少し出てくるように、オアシスを初めとするブリット・ポップ勢はブレアのニュー・レイバーと当初は蜜月の関係となるのだが、これはサッチャリズムへの勝利を意味したのだろうか。むしろサッチャリズムの貫徹を意味したのかもしれない。

イギリスだから何でもかんでも階級問題ってのは硬直した視点だといわれればそうなのだが、やはりパンクというものを考える時、階級問題を抜きにはできない。
オアシスVSブラーの、はたから見ればどうでもいいとも思える「戦争」の背景にも階級意識が作用していたことはよく指摘される。
ファクトリーのトニー・ウィルソンの「どうかしてる」感じの背景にも階級問題が影を落としていたのかもしれない(ウィルソンはケンブリッジ卒。『24アワー・パーティ・ピープル』が彼のこの部分を強調するキャラに仕立てていたことは示唆的でもある)。

アラン・マッギーはハシエンダを訪れるとすっかりはまってしまい、マンチェスターに引越しまでしてしまう。トニー・ウィルソンの番組に出演し、ウィルソンからなぜマンチェスターに越してきたの、と訊ねられたマッギーは「いいドラッグが手に入るから」と答える。
普通に見ればスーツ姿のウィルソンが「普通」で、髪をおっ立てパンクファッションに身を包んでいるマッギーが「普通じゃない」ということになるのだろう。
ただ僕には狂気の度合いという点ではトニー・ウィルソンの方が一枚も二枚も上を行っているように思えてしまう。マッギーはその点では「ナイーヴ」とすら写ってしまった。
この無自覚さというものが結局ブレアへの熱狂を招いたというのはうがち過ぎかもしれないが。

ドラッグに溺れ、放漫財政によってレーベルが立ち行かなくなるという点ではファクトリーもクリエイションも似た末路を辿ったといっていいだろう。
しかしトニー・ウィルソンが最後に入れ込んだのはあのどチンピラ集団ハッピー・マンデーズであり、アラン・マッギーが最後に掴んだのが(ギャラガー兄弟の性格はともかくとして)音楽的には王道、または保守的とすらいってもいいオアシスであったのは両者の違いを表すのに象徴的なことかもしれない。

クリエイションは資金繰りに行き詰まり、メジャーレーベルのソニーの援助を仰ぎ、その結果侵食されていく。
結局オアシスのどでかい成功を持て余す形で幕を閉じるのだが、ここらへんは反エスタブリッシュメントのはずが最終的にはエスタブリッシュメントに食い物にされて終わるというパンクが辿った軌跡そのままなぞっている感じなのだが、ここらへんも「笑劇」としての視点が弱い。
スーパー・ファーリー・アニマルズを「ブラーみたいだ」として契約するのは自虐的に自己相対化するのにぴったりのエピソードなのだが、そこらへんも薄い。


……ってあんたさ、それって映画の出来の評価とクリエイションの評価とをごっちゃにして語ってないか?

はい、その通りであります。
まぁここらへんは80年代(特に中盤から)というものにアンビヴァレントというか若干の怨嗟と嫉妬とが入り混じった視線を向けざるをえない人間の偏見であるということで流してもらいたいのだが、この映画に写るある種の「平板」さといものはいかにも80年代的文化であったのかなぁと、そして90年代というのはその残滓だったのではとかいう思いが湧いてきてしまったものでこんなことを書いてしまったのでありました。

と、なんか厳しいことをダラダラ書いてしまいましたが、あそこらへんの音楽が好きなら(念のために言うと僕もその一人ですので)やっぱり「あがる」ことは間違いない。

いつもラリってるようにしか見えない目つきのボビー・ギレスビーがアラン・マッギーのことを「ドラッグのやりすぎだった」というのがなんだかおかしかったし、一般にクリエイションを財政的に追い詰めたとされる『ラヴレス』の嵩みすぎた制作費について、「あれが原因で破綻したわけじゃない」とマッギーが言うのは強がりなのか気遣いなのか、などなどと当事者の証言というはやっぱり興味深くも面白かったですね(ってここだけ書けばよかったかな)。

気になったといえばおじいちゃんが一人で見に来てたのだけれど、内容を知ってのうえだったのだろうか。そういえば『24アワー・パーティ・ピープル』見に行った時隣が老夫婦で、映画が終わったときポカ~ンとしてたのを思い出した。まさかあの時のじっちゃんだったんじゃ……






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佐藤太郎(仮)

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