『競売ナンバー49の叫び』

トマス・ピンチョン著 佐藤良明訳 『競売ナンバー49の叫び』




エディパ・マースはかつての恋人であった大富豪のピアス・インヴェラリティの遺言執行人に突然指名されてしまう。気乗りしないながらもその役割を果たそうとするエディパの前には奇妙な面々が次々と現れる。そして謎の組織の存在が浮かび上がってくる……


ピンチョンの入門編としてよくあげられる本作であるが、一つにはその長さにある。短めの長編というか長めの中編というか、とにかくいきなり大長編に乗り出すよりは手ごろである。
もちろん理由はそれだけではない。ピンチョン的要素がより濃密ともいえる形で堪能できる。

熱力学をはじめとする理系からサブカルチャーまでの百科全書的知識の数々、虚実入り混じって語られる歴史、陰謀、パラノイア、スラップスティック的ギャグ、そして感動までもが、すさまじい想像力によって織り上げられる。

本作のテーマをものすごくざっとまとめてしまうなら、エディパがそれまで住んでいたのは公式的、あるいは教科書的なアメリカであったが、次第にもう一つのアメリカ、もう一つの世界の可能性に気づかされていくということになろうか。
もちろん単線的な成長小説ではないのであるが。

人間の(というか僕の)記憶というものはあてにならないもので、この新訳をきっかけにを10年ぶりくらいに読み返したのだが、これまでずっとエディパのことを三十代後半くらいだと思い込んでいた。いかにいい加減な読み方をしたのかという恥ずかしい告白になるが、おそらく「(七年たったら)そしたらあたし三十五よ」という部分を「今現在三十五歳」だと誤ってインプットしてしまったのだろう。
つまりエディパは二十八歳だったのであるが、これは本作を執筆した当時のピンチョンの年齢である。

これをもってしてエディパ=作者の分身と考えてしまうのはあまりに幼稚な伝記的批評となってしまうだろう。とはいうものの、この可能性を排除していいものだろうか。
巻末の「49の手引き」から引用する。「終盤近く、エディパは四つの可能性に向かい合う。(1)トリステロは実在する。(2)わたしの幻想にすぎない。(3)わたしは陰謀にハメられた。(4)わたしは陰謀を幻想している。」(p.249)
これに対し明確な回答は示されない。あるいはこれらすべてであり、同時にどれでもないのかもしれない。この多義性こそまさにポストモダン!という風に思われるかもしれない。
しかし、この後エディパが到達する認識は意外なほどストレートなものだ。それはもう一つのアメリカの姿。「WASTE」は本作のキーとなる言葉の一つだが、歴史の中で、あるいは今現在も「ゴミ」や「カス」とされてきたもの、それらは可能性であったのだ。「Aか非Aか、どっちつかずのグチャグチャはダメ、避けなさいと言われてきた。でも、そんな教えが、かつてはあらゆる可能性に満ちていたアメリカの地で、どうしてはびこってしまったのだろう?」(p.227)。
これはエディパの声であると同時に、ピンチョンが一貫して注ぐ世の中から打ち捨てられた存在への暖かな視線の反映でもあろう。

僕はアメリカ文学や映画について考えると、どうしてもアメリカはアメリカに対して自己言及的にならざるを得ないのではないかという結論に達してしまう。中でもピンチョンというのは、極めて誠実かつ率直に現実の「アメリカ」、そして象徴としての、可能性としての「アメリカ」というものに向き合っている作家なのではないかという思いをさらに強くした。まぁそこはピンチョンのこと、そうたやすくいくわけではないのですが。
例えばこの作品といえばすぐに浮かぶ、美しくも不思議なレメディオス・バロの絵を引用する意味はといえばいくらでも解釈が出てきてしまいそうでありますし。

あと前は気にならなかったのだけれどおやっと思ったのが、パロディを含めてビートルズへの言及がいくつかあることですかね。だからなんだと思われるかもしれないが、この作品は66年の発表なのですよね。ビートルズがエド・サリバン・ショーに出演してアメリカ進出を本格化させたのが64年2月のこと。つまりピンチョンが本作執筆時においては最新の風俗であったということになる。こういうものを作品に取り入れるというのはかなりリスキーだと思うのだが、ピンチョンはあえてこういうことをしたのか、それともビートルズがあれだけ巨大な存在になるという予感があったうえでやったのか。

エディパが久しぶりに訪れた大学の風景。わずかの間にかなりの変化があった。活気ある学生たちに出くわしたエディパは「魅了されつつも、信じてしまうことのできない疎外感」を味わう。
「自分が大学生だったころは、誰もが怖じ気づいていた。内にこもり、表向きだけ人当たりよくしていた。そういう時代だった。(中略)権力の上層部に、死をもってしか治療できない病がはびこっていて、みんなああいうふうに生きていくしかなかった。それがいったいどうなってしまったのだろう」(p.129)

前にも書いたがピンチョンというのはちょうどビート世代であり、そこから多くの影響を受けている。同時にピンチョンが青春時代を送ったのは欺瞞の時代でもあったのである。50年代の郊外の白人家庭を舞台にしたアメリカ産のテレビドラマに描かれる「理想の家族」像の影で何が起こっていたのか。
ピンチョンはここで、エディパ(「若き共和党員」!)の目を借りてやや年下の世代への期待と好感を表していると見てもいいのかもしれない。


さて、『V.』の新訳では訳注をつけない方針ということにいささか不満を憶えたのだが、今回は、すでに触れたように巻末に佐藤さんの手による「49の手引き」がたっぷりとついています。やはり栞ひもが二本ついてるだけでテンションあがってしまうのですよ。
この「手引き」は作品のキーとなる49の項目を扱ったもので大変楽しく、読む手助けにもなってくれるのですが、細かな訳注を望まれる方にはちくまの志村訳『49』も手元に置いておきたいかも。今僕が持ってるのは単行本ですが重複してる項目はあまりなかったりします。住み分けを図ったということでこういう形になった気もしますが。

その志村訳の解注を見返していたら、この作品の切手云々というのが映画『シャレード』からアイデアを受けているのかと思っていたが、ロバート・グレイヴスのAntigua、Penny、Puce(1936)にもいろいろとヒントを受けているのでは、とあるんだけど翻訳ないなぁ。クレイヴスの『白い女神』については『V.』でも言及されていたとか。うむ、全然憶えていない……

あと木原さんの『トマス・ピンチョン 無政府主義的奇跡の宇宙』の『49』の章を読み返したのですが、『49』を読み終えた後に見返すとまたいろいろ勉強になります。
ちなみに作中に登場した「マクスウェルの悪魔」を援用した「ネファスティス・マシン」って……ふう、頭がショートしそう。
「49の手引き」によれば2010年に中央大学と東京大学のチームが「マックスウェルの悪魔を実現」したとか(ここ参照。PDFです)。そう言われても全然イメージできないのだが……





「参考書の決定版」か。さすがに僕には手が出せんわ。


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