『勇気ある追跡』

『勇気ある追跡』

マティ・ロスは父親を殺した犯人がインディアン居住区へ逃げたことを知り、コグバーン、ラ・ビーフと共に追跡を開始する……




追う三人はそれぞれアメリカの比喩となっているようにも思える。
マティ・ロスは家族を愛するしっかりものの少女であると同時に信仰深く、ついでにすぐに弁護士の名前をだして訴訟をちらつかせる。
同じ犯人による別の事件を追っていてテキサスから合流するラ・ビーフは粋がって尊大でありながら少々頼りなくも思えたが、最後になすべきことを果たす。このキャラクターだが、小説『ドラキュラ』のアメリカ人、キンシー・モリスに似た雰囲気もあるような気がするが、『ドラキュラ』のほうの記憶が今ひとつ定かではないものではっきりそう言い切れない(どんな感じだったっけか)。
そしてジョン・ウェイン演じるコグバーンは腕は滅法立つが荒っぽく、酒びたり。法律どこふく風で己のやり方を貫く。気難しく信用ならないようで最後は頼りになる。

1969年の作品ということで「古き良き」西部劇という感じなのかなぁ。僕は西部劇というのは基本的なものも押さえていないものでよくわからないけど。

登場人物がアメリカの比喩となっているのではと書いたが、西部劇というジャンル自体がアメリカのある面を表すものであった。「あった」と過去形なのは現在ではさすがにそこまでナイーヴな作品は作られないということだ。
そもそも「西部」はアメリカが戦争で分捕った地域であるし、しばし「敵」として登場したインディアンはもともと自分たちの住んでいた場所を追われ、やむなく抵抗している完全な被害者である。

この作品においても、あらすじを考えれば全体にもっと影があってもよさそうなものなのに、ある種の牧歌的雰囲気すら漂っている。
マティ・ロスの父親を殺したチェイニーこそしょうもない人間として描かれているが、彼が頼ったネッド・ペッパーは手に負えないならず者でありながら「女は殴らない」。マティ・ロスなど一発であの世行きとなってもおかしくない状況に追い込まれるのだが、ここではワルといえども女には手をあげないのだ。まぁ作品世界のご都合主義といえばそれまでだが。
それでいてラ・ビーフのマティ・ロスへの「お尻ぺんぺん」は明らかに性的な不穏な空気を漂わせている。これは「ファンタジー世界」から現実が漏れ出ているということか。

そしてインディアン居住区が追跡の舞台となるのだが、登場するインディアンはわずか。それも「気のいいお手伝い」役。これは明らかに白人目線での「気のいい黒人奴隷」を連想させる。
映像的にも色彩が明るく、ストーリーとしても絵としてもにも屈託というものをあまり感じさせない。
「古き良き」と括弧付きで書いたのはこういうことだ。


なぜ本作を手にしたのかといえばもちろんコーエン兄弟がリメイクしたからなのですよね。
と言って実はまだこっちは見ていないのですが。

しかし69年版を観てもコーエン兄弟が惹かれそうなところはあまりないようなと思ったのだが、コーエン兄弟はあくまでこの映画のリメイクではなく原作を新たに映画化したということのようだ。映画そのものも昔に見たきりでほとんど憶えていないとのことだが、例によってこの手の発言はあまり真に受ける必要はないだろうけど。

原作も未読なのでどういうものかはわからないが、コーエン兄弟版の予告を見ると映像的にも象徴的にも「影」を加えたかったということなのかもしれない。
69年版が「清く正しく明るいアメリカ」であるだけにこそ、あえてこの作品を今になってリメイクしたということなのかもしれない……なんてことをダラダラ書くんなら早いとこ見ろって話なんですがね。








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