話が通じない

『パリ20区、僕たちのクラス』はあまり予備知識を仕入れずに見たのですがなかなか良かったです。またいろいろ考えさせてもくれました。
若干ネタバレしてますが、そういうのを気にする作品ではないのでいいでしょう。

貧しい人たちが集中して住んでいるのであろう地区の中学校。様々な人種からなる生徒たちは学校にも教育にも意味を見出せず。教師たちはひたすらトラブルばかり起こす生徒たちに疲れ果て、モチベーションを失っていく……




学校を舞台にした作品を感動モノに仕立てようと思えば、さして難しくはないだろう。
心を閉ざしていた生徒たちが教師の熱意に触れ、学ぶ喜びに目覚めていく。あるいは生徒を見下していたり、モノ扱いしかしなかったような冷血教師が、生徒たちの生の姿に触れることによってこれまでの振る舞いを反省し、教師たるべき姿に目覚めていく。
いずれにせよキーとなるのは「成長」である。

意見の異なる人と話すのは難しいものだ。それでも、互いに妥協点を見出せるかもしれないし、相手を説得したり、逆に説得されたりすることもあるだろう。また結論は変わらなくとも、違う考え方に触れることによって視野が広がるということもある。

では話の通じない相手と会話をしなければならないとしたら。
相手は確かにフランス語なり日本語なりをしゃべっている。目の前にあるえんぴつのことを「えんぴつ」と言っている。しかし同じ言語を使っているとは思えないほど、まるで話がかみ合わない。ただひたすら徒労感がつのっていくばかりになるだろう。
本作に描かれるのはそんな姿だ。

フランス語教師のフランソワは生徒に文法を教える。彼らにとって「半過去」など自分たちは使うことがないのだから関係ないとなる。日常的に使わないからといって必要ないということではない。とりわけ移民や貧しい生まれの人々が社会階層を上昇しようとするなら、「正しい文法」を身につけておくにこしたことはない(このことが「正しいこと」かどうかはまた別問題であるが)。
そもそも彼らには、おそらく社会階層を上昇しようという発想すらないのだろう。諦めているのではなく、そのようなことが初めから浮かぶことがないのだ。

フランソワは自己紹介文を書かせようとする。生徒たちはブーブー言いながらもつたない紹介文を書き、発表する。感動的な場面だ。ではこれで話がうまくいくのかというとそうはいかない。
「言葉を身につけることによって自己表現を学び、その過程で自分たちが置かれている状況を理解する。それは社会が、あるいは個人が抱える問題に取り組むための目覚めとなることだろう」このように終わっていれば感動の一作となったはずだ。
しかしブツっと切れてしまう。後が続かない。束の間のコミュニケーションは成立しても、「話が通じない」のである。

現在この作品を見ると、先ごろ起こったロンドンの暴動について考えざるを得ない。
もちろん2005年にフランスでも大規模な暴動があったのだが、これはサルコジというわかりやすい「悪役」の登場によって「虐げられた移民や貧しい人対公権力」という勧善懲悪の物語に還元することができた。しかしロンドンの暴動はそうはいかなかった。

右派側の反応はわかりやすい。暴れたのは規律に欠ける甘やかされた連中なので、のさばらせないためにも学校や警察がもっと厳しく対処しなければならない、となる。

では左派側はどうだっただろうか。
今回の暴動には大儀がない、という非難をする人たちがいた。例えば反グローバリゼーションのデモ隊が「暴徒化」したとしても、彼らが襲うのはマクドナルドやスターバックスというおなじみのグローバル企業だ。ところが今回の暴動ではグローバル企業とは真逆の個人商店などが襲撃、略奪の対象となった。過去にあった「暴動」とされるものには正しい怒りやまっとうな理由に基づく行動であったが、今回はただの暴力行為にすぎない、というものである。

このような意見に反論するのは簡単だ。
確かに今回暴動で攻撃されたのは、本来ならば連帯すべき相手だった。しかしそれを非難するだけでは「奴ら」の思うツボである。そもそも彼らは自分たちの置かれている状況を理解する術を奪われているのだ。92年のロサンゼルス暴動の時、黒人たちが攻撃したのは白人ではなく近所の韓国系の商店というケースが目立った。「あいつらが仕事を奪った」と思い込まされて、より大きな戦うべき相手の姿が見えなくされた。今回の暴動でも、暴れた人間にとっては金融街で莫大なカネを指一本で動かすような人間の姿など初めから目に入りようもないように仕組まれ、「商店を持っている」というだけで「とてつもない成功者」であるかのように映り、その目の前の「成功者」に怒りをぶつけただけなのだ。彼らの絶望が深いのではない。彼らは自らが絶望させられていることにすら気づかされないような存在にされてしまっているのである……

僕自身は実は最後の考え方に近い。だとすると、ここで大きな問題にぶちあたる。ではどうすればいいのか、という。
すぐに思いつくのが教育である。右派の主張するような「規律」という名の服従を強いるようなものではなく、人間性を開放し、伸びやかな知性を身につける真の教育。しかしそんなことを言うのは簡単だが現実に可能なのだろうか。そう考えると、残念ながら暗い気持ちにならざるをえない。

映画に戻る。フランソワはスーパーマン的全能の教師ではないので、いきなり何もかもうまくいくのではないし、時おり感情的になってしまうこともある。しかし従来の感動的学園モノだとすると、十分にヒーローの資格はあるように思える。完璧ではない教師が、生徒とぶつかり合いながら共に成長していく。そうなっていればより感動は深まるかもしれない。
しかし本作では、ある出来事から苦い方向へと物語は進み始めてしまう。

最終的に問題になるのは、問題行動を繰り返すアフリカのリマからの移民の子である生徒だ。
彼を「退学」させるべきか否か。退学といっても義務教育なので(だと思うけど、フランスの教育の仕組みがよくわからない)完全に教育から締め出すのではなく、どこかに転校させられるだけだ。つまり「ババ抜き」なのである。途中からこの学校にも「ババ」とされた少年が転校してくる。これが延々と繰り返されていく。

「退学」させられる少年の母親はフランス語を話すことすらできないという家庭環境であり、父親は彼をリマに送り返すことになるかもしれない。
ではこの処置を非難することができるのだろうか。もし僕があの場にいたら、それ以外の解決策を何か見出せるというのだろうか。
教師たちにとって、この学校の生徒は「話の通じない」相手なのである。いくら努力しようとも個人や学校にできることには限界がある。そのことを嫌というほど突きつけられる。そして、このようなことは毎年繰り返されているのだ。

最後近くに、この一年で学んだことについて話し合ったのだが、ある少女が「何も学んでいない」と言い出す。「全ての授業がまるでわからなかった」と。そして彼女はまた「就職コース」に行かされるのは嫌だと言う。
これをどう考えればいいのだろうか。この少女の言葉を文字通りに受け止めれば、彼女には授業についていけないほどの軽い知的障害があって、それが見過ごされてきたのかもしれない。また「就職コースが嫌だ」ということは、ここから抜け出したいとい意思を持っていたとも取れる。
前者だとすれば完全に教師の不注意であろうし、後者であれば彼女はフランソワの求める「話の通じる相手」だったのかもしれない。どちらにせよフランソワはこれに気がつくことがなかったのだ。告白は教師の敗北を示すものであろう。

この作品を「感動モノ」として扱うにはやはりいささか無理がある。
確かに、最後の教師と生徒とのサッカーは両者の心が触れ合う瞬間として感動できなくもない。
では生徒たちの人生は変わったのだろうか。そして「退学」させられた少年はどうなったのだろうか。学校は、この地区は生まれ変わったのだろうか。新学年の始まりからその終わりまでが舞台となるのだが、次の一年も教師たちは同じ徒労感に襲われ続けるに違いない。
残酷にして絶望的で、無力感ばかりが膨らんでいく物語だったのではないか。





うむ、ブルデューの『ディスタンクシオン』でも読み返してみようかな。



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佐藤太郎(仮)

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