『ダールグレン』

サミュエル・R・ディレイニー著 『ダールグレン』



あまりしっかりとは読めなかったのですが、せっかく長いのに目を通したので。


「アメリカSF最大の問題作」ともされているが、印象としてはメタフィクションのほうが強いかなあ。もちろんSFとメタフィクションというジャンルは両立不可能なものではなく、むしろ相性はいいのだろうが、後者のほうにより力点が置かれているように感じられた。
実際巻末の巽孝之の解説によると狭義のSFにこだわる人からは否定的反応もあったようだ。

僕はSFに疎いもので、このようなテイストの作品をSF史の流れにおいてどの位置に置けばいいのかよくわからないが、主人公が記憶を失い時間軸の失調した街にやって来て詩を書き記すなどという設定はいかにもポストモダン的メタフィクションであるし、その始まり方/終わり方もこれまたいかにもという感じだ。
二つの月などSF的仕掛けもないではないが(ところで村上春樹は本作を読んでいたのだろうか)、今日これを読むと、これらはとりたてて「SF的」という印象もない。まあこれは、それだけジャンルの混淆が進んだということなのだろうが。

近い時期に出たピンチョンの『重力の虹』と並んで評されることもあるが、むしろ比較すべきは日本においては筒井康隆の実験的作品なのかもしれない。筒井のSFやブラック・ユーモアなどを愛好する人でも「文学的」作品は微妙な受け取られ方のような気もするし(とか言って実は僕は筒井作品にも疎く、当然その評価もよく把握してないのでありますが)、そこらへんも似ているのかもしれない。


いわゆるポストモダン作品においては次のような特徴が見受けられることがある。

・わかりづらいがしっかり意味がある。
・わかりづらいことに意味がある。
・意味がないことに意味がある。
・ほんとに意味がない。

もちろんこれらのどれか一つというのではなく、とりわけ長編においてはこれらの要素を組み合わせて出来上がっているものが多い。
『ダールグレン』はなんといってもその長さが話題にもなるが、プロットのみを考えると必然性がいささか疑わしくも思えるこの長さは、長いことにこそ一つの意味があるとも考えられる。本の厚さ自体が表現となっているのかもしれない。
本作のテーマには人種やセクシャリティがある。これらについて考えるとき、常に何か読み落としている、あるいは過剰な読み込み方をしている、またはそのような不安に苛まれていくということがある。長さによってその不安は助長されるし、その「破格」さによって捉えようがなくなっていく。「わかりづらさ」や一見したところの「意味のなさ」にこそ意味があり、それを直接身体反応として読者に意識させるばかりか、文字通りに体験させるということなのかもしれない。

アメリカでは発売してすぐに七十万部を越える大ベストセラーになったそうだが、これはある種の「事故」といっていいだろう。本の売り上げというのはたまにこういうことが起こる。
本作は決して万人向けとはいえないだろう。ハマる人や非常に高く評価する人がいるというのもよくわかるのだが、一方でどうもノれないという人もそれに負けじと多いような気もする。

かくいう僕も最初に書いたように今ひとつノれなかったクチなのでありますが。言い訳ではありませんが、かなり読者を選ぶ作品であることは間違いないでしょう。

もう少しオーソドックスなSFのような『ノヴァ』と『アインシュタイン交点』はそのうち読んでみようかな、とも思ったけど。



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