『カメラ・オブスクーラ』

ウラジミール・ナボコフ著 『カメラ・オブスクーラ』




妻子ある美術評論家クレッチマーは16歳の少女マグダに魅了され破滅していく……

で、作者がナボコフとくれば『ロリータ』を連想せずにはいれないであろう。確かにこの両作のプロットはよく似ている。先ごろ邦訳も出たナボコフの未完の遺作『ローラ』にもやはり少女と性の問題が出てくる。

解説によると『カメラ・オブスクーラ』は1932年から33年にかけて雑誌に連載されたロシア語で書かれた作品である。この作品はナボコフ自身の手によって38年には英訳が出されている(ちなみに篠田一士訳『マルゴ』はこの英訳から。また仏語からの重訳で川崎竹一訳『マグダ』としても出ているが、ロシア語原典からの翻訳は今回が最初だという)。しかしナボコフはその際大幅な改編を施しており、これはナボコフの他の自作翻訳とは異質だという。そしてロリータが世に出るのは1955年のことである。

これをどう考えればいいのだろうか。ナボコフにプロットをひねり出す能力が欠けていた(または途中で枯渇した)ために同じような題材を何度も取り上げたのだろうか。あるいはナボコフは少女愛というテーマにオブセッションを抱いていたのだろうか。

ドストエフスキーは『悪霊』の「スタヴローギンの告白」に代表されるように、少女陵辱を何度か取り上げ、彼自身もオブセッションを抱いていたとも考えられる。
有名な話だが、ナボコフは『ロシア文学講義』などでドストエフスキーに辛い評価をしている。これにはいくつか理由があるようだ(『21世紀ドストエフスキーがやってくる』の秋草俊一郎氏の文章を参照)。
ではナボコフはドストエフスキーに似た嗜好を感じ取って愛憎半ばしていあのだろうか。「少女」ということに関していえば少々異なるかもしれない。

『ロリータ』は表面上のプロットをなぞっただけではとても「読んだ」とはいえないような入り組んだ構造を持つ作品であった。これに対して『カメラ・オブスクーラ』はシンプルな三人称小説の構造をとっている。『カメラ・オブスクーラ』をヴァージョンアップさせたのが『ロリータ』だと考えることも可能だ。ただこれは単に「少女愛」を扱ったというプロットを深めたというところにばかり注目するのではなく(繰り返すが『ロリータ』の表面上のプロットのみに拘泥していては「読んだ」とはいえないだろう)作家としてのナボコフの変化、あるいは成長と考えたほうがいいのかもしれない。

とりわけ20世紀に入ってからの文学は「書く」あるいは「読む」という行為を自明視して透明にするのではなく、それ自体が文学の主題ともなる。
盲目となったクレッチマーの奇妙な体験は小説の読者のそれと重なるという指摘が解説でなされている。
ナボコフはこの作品において小説の限界と可能性をクッレチマーの体験という形で試したのかもしれない。これは相反するものではなくコインの裏表であろう。
ミステリーで叙述トリックというジャンルがある(作品例をあげただけで即ネタバレということになってしまうので控えるが)。これを小説以外のジャンルで行うことは不可能とまでは言わないまでもかなり難しいであろう。同時に起こった複数の出来事をそのままに描写することは、映像では簡単だが書かれたものでは不可能だ(必ずズレが生じてしまう)。逆に言うとそのズレを利用することができる。また語られていることが事実とは限らないし、「見えている」もの全てが描写されるとも限らない。

ナボコフはこの限界(必ずしもマイナスだけではない)と可能性の双方を活かそうとした作家なのかもしれない。繰り返しになるが『カメラ・オブスクーラ』はシンプルな三人称小説であり、そのためにクレッチマーの体験が隠喩であることがストレートに表出される。そこへいくと『ロリータ』の入り組んだ構造は隠喩自体をも隠喩化していくような目くらましがなされているようにも思える。

ナボコフにおける少女愛の問題に戻ると、これはヒッチコックがいうところの「マクガフィン」とも考えられる。マクガフィンは物語を駆動させる装置であり、その仕掛けは派手であればあるほどいい(世界を破滅に導く陰謀などなど)。クレッチマーにしろハンバート・ハンバートにしろ、彼ら自身が興味深い人物とは言いがたい。動力が必要であるし、文学的技巧を施す際にその「目をくらませる」ためには「少女愛」というスキャンダラスなプロットはもってこいだろう。マグダは16歳だが、ロリータちゃんの年齢はさらに引き下げられ12歳である。よりスキャンダラスな様相が深まるし、そのためにくらまされた目で文学的秘密に分け入るのが難しくなると同時に魅力的ともなる。
マクガフィンそのものに意味はない。ナボコフ作品で繰り返し用いられた少女愛は派手なギミックにすぎないということなのかもしれない。

……というふうに割り切っていいものかとも思ってしまうのですがね。
別にスキャンダラスなテーマは少女愛に限ったことではないし、『ロリータ』出版以降も『カメラ・オブスクーラ』を習作と見なして封印したということもないようでもある。そう考えるとやはりナボコフの描く「少女愛」それ自体に何か意味を見出すべきなのだろうか。そう考えることが何か罠にはまっているような気がしなくもないのだが。作中のゼーゲルクランツによるプルーストチックな意識の流れ風のパロディを読むと、ナボコフがあっかんべ~してるようにも思えてきてしまう。

やはりナボコフ、いくら「読みやすい」とはいってもあなどることはできないのであります。




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佐藤太郎(仮)

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