死の識閾

イアン・マキューアンの『ソーラー』を読んでいたらこんな一節にでくわした。
「プリムローズ・ヒルの支店から歩いて二分、かつてシルヴィア・プラスが、眠っているこどもたちのためにパンとミルクを用意したあと、オーブンに首を突っこんだ建物のほぼ向かいだった」(p.204)

僕は徹頭徹尾散文的な人間なもので、シルヴィア・プラスの名は大学である授業を取るまで知らなかった。その授業で配られたレジュメにはこんな感じの年表があった。「1963年 シルヴィア・プラス、ガスオーブンにて自殺」。
僕はこの文章を見て凍り付いてしまった。少し冷静になって考えればすぐにわかることだが、シルヴィア・プラスはガス自殺を図ったのであって、自らの頭部を焼き払ったのではない。この自殺方法というのは当時は珍しく異様なものというわけではなかったようだ。

しかし、僕の脳裏にはある光景のイメージが焼きついてしまった。
別の女に走った詩人の夫は不在で、隣の部屋では幼い息子たちが寝ている中、まだ30歳の才能豊かな詩人が燃えさかるオーブンに頭を突っこむ姿が。髪の毛がチリチリと縮み、皮膚が溶け、骨が焦げていく光景が。

繰り返しになるが僕は散文的な人間なもので詩より小説と思って女性版『ライ麦畑』と称されることもあるプラスの小説『ベル・ジャー』なども読んでみたのだが、これはもう一つピンとこなかった。それでも、シルヴィア・プラスという名は僕にとって特別な意味を持つ響きとなった。
僕は今でもオーブンの燃えさかる炎が脳裏をよぎることがある。そしてすぐ近くで眠っていた子どもたちが焦げた臭いに目を覚ますのではないかと想像すると胸が痛む。その時隣室で眠っていた息子の一人は二年ほど前に自ら命を断った(こちらを参照)。


村上春樹の『ノルウェイの森』は「自殺小説」でもある。登場人物が次から次へと(というのはちょっと誇張だけど)自ら命を絶っていく。これには「安易だ」「自殺を軽く扱うな」というような批判があるのだが、果たしてそうなのだろうか。むしろ僕には真に迫っているようにも思えた。
ある女性の自殺を知ったワタナベはこう記している。「人生のある段階が来ると、ふと思いついたように自らの生命を断った」(文庫版下 p.120)

『ノルウェイの森』は死の世界に捉われた直子をワタナベが救い出さんとする冥府下りの物語である。この作品は必然性の薄さやご都合主義やあざとさに満ちているとも取れるが、村上春樹はむしろ進んでそのような物語を紡ぐ「蛮勇」をふるったのだと僕には思える。そう、それはあたかも神話のように。
冥府下りの物語は様々な神話で描かれている。神話は事実を事実として記したものではないが、同時に世界の成り立ちをある立場から説明したものでもある。もちろんそこには当時の権力者の政治的意図などがこめられてるのだが、同時に多くの人にとって現実から遊離した物語であってはならなかったはずである。

ファクトリーの盛衰をトニー・ウィルソンの一人称視点で描いた『24アワー・パーティ・ピープル』とイアン・カーティス夫人の伝記を原作にとった『コントロール』には共にイアンの自殺の場面がある。事実に近いのは『コントロール』なのかもしれないが(イアンは天井からぶらぶらとぶら下がったりはしてない)、僕は『24アワー・パーティ・ピープル』のあっけないとも思える描写のほうがこたえた。

イアンは「ふと思いついたように」自殺をしたのではないと言うかもしれない。
国内で成功を収めつつあり、目前に迫ったアメリカツアーでさらなる成功が約束されていたも同然だった。夫婦仲は冷え切り、愛人がいて、幼い娘がいた。ステージ上で癲癇の発作が起きてしまったのが「全ての終わり」だったのかもしれない。成功へのプレッシャー、絶望的な家庭生活、最も見られたくない部分を大勢の前でさらしてしまう。どれも死を選ぶのには充分なのかもしれない。
ではこのような状況で、人は必ず死を選ぶのだろうか。

社会適応能力に欠ける若者の多くがそうであるように、僕にとっても自殺はシリアスな問題であった。
生きる理由と死ぬ理由とを比較して考えてみたりもしたが(うへぇ!)圧倒的に死ぬ理由のほうが勝っていた。
では僕はなぜ死ななかったのだろうか。これについて書き出すと収拾がつかなくなるので割愛するが(というか実際に書きかけて収拾がつかなくなった)一つわかったことは、僕は自ら死を選ぶことはないだろうということだ。僕というのはそう人間なのだ。これは理屈ではない。正しいか間違っているかという問題ではなく,ただそうなのだ。そう思えてきて現在に至っている。

もちろん世の中なにが起こるかわかったものじゃない。一年後に、あるいは一ヵ月後に「ふと思いついて」しまうかもしれない。
死はあまりにも重く、同時に軽くももある。これ以上ない不条理であると同時に、誰も避けることができない。命は尊く、失われると取り返しがつかないものであり、それでいて人は簡単に殺され、「ふと思いついたように」自ら命を絶つこともある。
その敷居というのは、自分を死ねない人間だと思えてしまう僕の想像よりずっと低いものなのかもしれない。ある人は生き続け、ある人は死を選ぶ。それを分けるものはなんなのだろうか。そう考えると、『ノルウェイの森』や『24アワー・パーティ・ピープル』の「あっけなさ」こそが、かえってより現実を反映しているようにも思えてくる。

僕にとって自殺はシリアスなものであると同時に、どこかリアリティの欠けた問題でもある。自殺というものと無縁の生活だったわけではない。死を選んだ友人がいるし、その体験は今でも「澱」のように心に残り続けている。しかし自殺のことを考えると、まるで袋小路に入ったように思考が行き場を失ってしまうのである。


と、なんだか暗い話になってしまったが、とりあえずはこの言葉を胸に刻んでおこうか。
一寸待て ハードディスクは消したのか

うむ、こりゃやっぱり死ぬわけにはいかんな。

とか書いていたのだが、シルヴィア・プラスの伝記映画って2003年に公開されてたのね。我ながら全然気づかなかったというのも不自然だよなぁと思う。ここらへんは精神分析の領域かいね。















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佐藤太郎(仮)

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