『バット・ビューティフル』

ジェフ・ダイヤー著 村上春樹訳 『バット・ビューティフル』




僕はジャズをまるで聴かないのだけれど(別に嫌いなわけではなくどこから手をつけたらいいのかわからないまま放置した結果現在にいたっている)ジャズ・ミュージシャンのエピソードなどは結構好きだったりする。ロックやポップスでもにぎやかな人は多いが、ある時期までのジャズ・ミュージシャンの「気合の入り方」(という言い方でいいのかわからないが)はちょっとレベルが違う。
本書はそんなジャズ・ミュージシャン八人のエピソードを描く。

本書に描かれるエピソードの多くが暗く陰鬱である。ほとんど、というより全く救いがないようにすら思えてしまう人物もいる。
アル中やヤク中に陥り、刑務所や精神病院に送られる。あるいはこれら全てを一人の人間が体験してしまったりもする。

なぜジャズ・ミュージシャンの「気合の入り方」のレベルが違うのか。それは比喩ではなく、文字通りの意味で社会の周縁に置かれた人々が多かったからということもあるだろう。
人種差別、経済的困窮、精神的孤立。あまりに重いものを背負わされている。にもかかわらずというべきか、だからこそというべきなのか、そこにはある種の聖性とすらいっていいものが芽生えることもある。絶望的な中にふと現れる奇跡の予感、あるいはその残滓。それはどこまでも残酷で哀しく、「それでも……美しい」。

そのようなエピソード集ならいくらでもあるのだろうが、本書の最大の特徴はその手法にある。
(本書を読んで)「そのときに僕がまず思ったのは、「この本って、いったい何なんだ?」ということだった。これは評伝なのか、それともフィクションなのか?」というのは村上春樹の訳者あとがきからの引用だが、確かにこの微妙な線上にある。

ダイヤー自身はこれを「想像的批評」としている。事実を基にしていることは間違いないが、同時にその出来事を「まるで見てきたことのように」描き、内面にも深く分け入る。一つ間違うと「見てきたんかい!」と突っこみを入れたくなるところだが、本書はその手法がうまく効果を発揮している。村上はレイモンド・カーヴァーの最後の作品となった、チェーホフの臨終を描いた『使い走り』を想起しているが、確かに雰囲気は近いものがあるかもしれない。エピグラフの一つとして「彼らのありのままの姿ではなく、私の目に映ったままの彼らの姿を……」という言葉がある。
僕はジャズに疎いので本書がどれほど伝記的事実に忠実なのかは判断できないが、これは言ってみれば神話の語り直しという作業なのかもしれない。


翻訳書を読む場合、多くの人がまず「訳者あとがき」に目を通すだろうし、それは構わない。次に著者の長い「あとがき」を読もうとするかもしれないが(僕はそうしてしまったのだが)、それよりもとにかくまず本編にとりかかるべきだろう。最初に収録されているレスター・ヤングの章を読み始めると、予備知識があろうがなかろうが圧倒されるはずだ。なぜ著者の「あとがき」は後回しにしたほうがいいかというと、村上もいささか懸念を表明しているが、ここに関してはなんとなくとっつきにくい、「いかにも」なジャズ評論となっている気がしてしまう。ここを先に読んで「こりゃどうもな」としてしまうのは非常にもったいない。これも村上が指摘するように、それだけ本文が素晴らしいがゆえにかえってということでもあるのだろうが。

ジャズに興味がない人でも良質な短編集のような感覚で読むこともできると思います。




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佐藤太郎(仮)

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