『ヴァインランド』

トマス・ピンチョン著 『ヴァインランド』




アメリカ文学史に燦然と輝く『重力の虹』から17年。ついに沈黙を破って発表されたのがこの『ヴァインランド』である。
この作品が発表されると、とまどいや失望で受け止める人も少なくなかった。これまでは文系理系問わず百科全書的知を壮大なスケールで物語に押し込んでいったが、本作はまるで「ポップ・カルチャーのカタログ」のような世界観となっている。
このことのみならず、『ヴァインランド』以降ピンチョンの作風が変化したことは多くの人が感じ取ることだろう。これまでと比べると「わかりやすく」なっているのもその一端である。これを作家としての成長と見るか後退と見るかは意見が分かれるところだろうが。


カリフォルニア州ヴァインランドに住む元ヒッピーのゾイドは娘のプレーリーと二人暮らし。ゾイドは年に一度「窓破り」などの奇行をして精神障害者と認定されなければならないある事情を抱えていた。しかしこの年は何かが違う。かつての宿敵、連邦捜査官のヴォンドの影が迫ってくる。危険を察知したゾイドはプレーリーにタケシ・フミモタの名刺を渡し、逃すことにするのだが……


「わかりやすい」とはいってもそこはピンチョンのこと、以降またまた膨大な登場人物に入り組んだ時間軸ということであらすじをまとめる気力は挫かれるのでありますが。

そもそも「ヴァインランド」とは何なのであろうか。
『アイスランド・サガ』にて語られる紀元1000年ころにヴァイキングが殖民した北米の地のことである。とはいってもコロンブスやアメリゴ・ヴェスプッチから遡ること約500年なので「北米」という言い方もふさわしくないのかもしれないが。
ピンチョンの祖先が初期のピューリタンの入植者の一員の名門であることは有名だが(ホーソーンの『七破風屋敷』に登場するピンチョン判事はそのピンチョン家の人物がモデルになっている)その末裔たるトマス・ピンチョンは、ピューリタンの入植に象徴される事態によって「アメリカ」の中の何か決定的なものが損なわれたと考えているようだ。
「ピンチョンのこのタイトルは、二十世紀の官憲国家が蔓延する前の、緑なすアメリカのイメージを担っているといえるだろう」(p.555)とは巻末の「ヴァインランド案内」での佐藤良明の言葉だが、ピンチョンの少なからぬ作品がそうであるように、本作は現実のアメリカという国家と、可能性としての「アメリカ」を問い直そうとした作品であると考えていいだろう。

物語における現在は1984年。もちろんジョージ・オーウェルの『1984年』がすぐに想起されるが(ピンチョンは『1984年』に序文を寄せてもいる)、この年はまたレーガン再選の年でもある。
映画俳優組合の委員長として赤狩りに協力し、60年代はカリフォルニア州知事としてデモへの実力行使を行い、大統領として組合潰しなどに奔走したレーガンは現実国家アメリカの暗い側面を象徴している。

「終わったんだよ。時代が変わったのさ。<ニクソン・イヤーズ>ってな。そのうち<レーガン・イヤーズ>ってのが来るぞ」/「あのレーガンがか? まっさかあ、大統領? 笑っちまうぜ」/「だめだ、だめだ、ゾイド。そんな呑気に構えていたら全部吸い取られちゃうことになるぞ」(p.448)
これはムーチョ(『競売ナンバー49の叫び』のあのムーチョです)とゾイドとの会話である。この20年後にその「まっさかあ」が現実になってしまうのである。
そして20世紀の半ばを過ぎても骨相学を信奉し、私怨も込みでもう一つの「アメリカ」を追い求める人々を弾圧するヴォンドはレーガン的人物の象徴でもあろう。

例によってまたまた頼ってしまうが、木原善彦の『トマス・ピンチョン』によれば、ジェイムズ・ジョイスが『オデュッセイア』を下敷きに『ユリシーズ』を書いたように、『ヴァインランド』は「スター・ウォーズ」(旧)三部作を下敷きにしたとも読めるという。
確かにそう思って読むと符合する点が多い。
ヒロインの一人であるプレイリーは、かつて左翼過激派の活動を行っていた母のフレネシは人民の側に立ったために地下にもぐらなくてはならなくなったと聞かされて育ったのだが、実際のフレシネはヴォンドの手先であったことを発見する。
これはルークとダース・ヴェイダーの関係とそっくりであり、作中ではヴァインランド近くで『ジェダイの帰還』の撮影が行われていたりもする。終盤ではこともあろうにある人物が「私こそ、君のほんとのお父さん」というセリフまで言ってしまう。ピンチョンが「スター・ウォーズ」を強く意識していたことは間違いないだろう。

作中人物と作者とを混同した批判というのがなされることがあるが、作品世界と作者の意図を混同した批判というのもなされる。『ヴァインランド』へのネガティブな反応の中にもこのようなものが見受けられるそうだ。
ピンチョンはそのような危険を冒してまでなぜこのような「軽薄」ともいえる世界を選んだのであろうか。それは80年代を描くにはこの方法が一番ふさわしいと考えたからなのかもしれない。

80年代といえば日本ではバブルに「軽チャー」の時代であったが(これらは80年代後半だけど)、アメリカではヤッピーの時代であった。組合は攻撃にさらされ、その結果労働者の権利はないがしろにされるようになった。社会保障費は削減され貧富の格差も目立つようになってきた。そんなことはどこふく風と大都市のヤンエグはブイブイいわせていたのである。文化的にも制作費をどかんとかけて大宣伝を打つブロックバスター映画が主流となり、MTVにはきらびやかなPVが流れ続けた。

全体主義国家が最も効率的に人々の支配に成功した時、人々は自らが支配されているということにすら気づかないであろう。
これはフーコーの権力論も想起させる。「FBIのスーツを着た穏和な性格俳優を各地に配して、羊の番人をやらせておく」(p.506)などフーコーの「司牧的権力」への目配せのようにも思えてしまう。ドゥルーズはある時期まではフーコーとは盟友関係にあったが、そういえば一箇所いたずらっぽくドゥルーズ=ガタリの名が登場する。といってもこれはすぐそういうものを持ち出す批評家へのあっかんべ~にも思えてもしまうが(旧訳の「訳者ノート」では佐藤はそちらの見解のようだ。98年版p.595)。

オーウェルの『1984年』では、権力は歴史や個人の記録も管理しコントロールを行い、人々に自分たちが支配されているという念すら起こさせないような世界が実現しかかっている。『ヴァインランド』でも何かがおかしいと気づき始めるのはコンピューター上のデータが抹消されているためであるが、これはレーガンの時代らしく予算削減がからんでいる。

『1984年』で支配の道具として使われたのがテレビであったが、『ヴァインランド』でも(あるいは現実の世界でも)人々はテレビづけである。あぁ、テレビ中毒の麻薬捜査官ヘクタ!
確かにテレビは人々を受動的にさせ、批判的思考を奪うものかもしれない。しかし本作では必ずしもテレビをマイナスのもばかりとしているのではないようにも思える。
例えばヘクタも、ゾイドとは「ルパンと銭形」の関係のようで、どこか憎めないキャラクターでもある。また「スター・ウォーズ」と並んで『スター・トレック』への目配せも多いが、『スター・トレック』は60年代の理想主義的雰囲気を反映した作風であり、再放送によって世代を超えてファンを獲得し、80年代(!)になると普及し始めたビデオを通じてさらに広がりをみせた。こう考えるとテレビをネガティブなものとばかりもいえないかもしれない。何より、おそらくはピンチョン自身もかなりのテレビマニアであろうことが想像されている(『シンプソンズ』には声優として出演まではたしている)。

本作の特徴の一つには時間軸や視点がある。
過去Aを三人称で語っていたと思ったらそれはある人物の視点であり、そこに現在が溶け込むかと思えば過去Bへと流れていくうちに視点人物が入れ替わりという感じで、時おり「え~と、これは今誰が語っているんだ?」という感覚になる。これなどテレビのザッピングを思い浮かべられなくもない。夜中にぼんやりテレビを見ていて、二つのチャンネルで放送されている映画を行き来しているうちに、両者が交じり合っていく感覚とでもいおうか。こういうのもまた80年代的ノリと言えなくもないような。

80年代的空気感といえばキッチュな日本描写もそうかもしれない。
準主役として活躍するDLは日本で忍者修行に励み、カルマ調整師のタケシがいなければ物語は大団円にまでたどり着くことはできなかっただろう。それにしても忍者! そしてタケシ・フミモタ、あるいはワワヅメ博士の苗字はなんとしたことあろうか。
もちろんピンチョンは徹底したリサーチを行っているであろうから(野球中継が途中でぶった切られることなどがしっかり書かれている。しかし当時はなかったセリーグのプレイオフが出てくるが、これはわざとなのかミスなのか、はたまた予言だったのだろうか)「それらしい」名前をつけることはわけなかったはずだ。これは英語圏などで愛好された「B級」的日本描写の模倣と考えたほうがいいだろう。
そしてそのような珍妙なるジャポニズムへのオマージュはタランティーノの『キル・ビル』を思い浮かべることができるかもしれない。旧訳の「訳者ノート」で佐藤は「九〇年台、映画『パルプ・フィクション』等で一気に大衆化する「パルプ的感性」の源流の一本はピンチョンに遡るというのが僕の持論である」(98年版p.600)としている。当然ながらこの佐藤の文章は『キル・ビル』の前に書かれている。
ここらへんのジャンクなものをジャンクとして楽しむというのは、時代がようやくピンチョンに追いついてきたということかもしれない。これもまたピンチョンの魅力の一つである。


さて、本作において最大の問題は、これはハッピーエンドなのだろうかということかもしれない。
『ジェダイの帰還』よろしく祝祭的な雰囲気の中で物語の幕は降ろされる。しかし危うい空気というのも孕まれているようにも思える。
本書のヒロインたちはトラヴァース家の血を引く三代の女性であるが(『逆光』で描かれることになるあのトラヴァース家です。)このバリバリの左翼家系の人々がなかなか微妙である。
祖母のサーシャは権力や圧政や権力の象徴ともいえる制服をまとった男性に性的に惹かれてしまう。母フレシネは「ダークサイド」へと落ちる。娘のプレーリーも自分が金持ちの家の子どもだったらということをつい夢想してしまうのである。

レーガン的ファシズムに対抗できるものは何であろうか。
レーガンは軍拡や弱者切捨てを行うと同時に「家族の価値」も強調した政治家であった。現在でもアメリカではレーガンを「国父」と崇める人は多い。
それに対抗できるのもまた家族なのかもしれない。それは排除や囲い込みの論理ではなく、暖かさや連帯の象徴としての家族である。
『ヴァインランド』は家族小説である。トラヴァース家の物語であるがそれだけではない。一族の集いには、血のつながっていないゾイドやプレーリーの恋人のイザヤ書第二章第四節(これ、名前です)も加わる。

もちろんこれは両義的なものであろう。
「緑なすアメリカ」と官憲国家アメリカ。テレビは人々を支配するのか解放するのか。家族は抑圧装置としても機能しかねない。
ピンチョンは「もう一つのアメリカ」を求めた人々に好意とシンパシーを抱いているのであろうが、60年代のそれを無条件に礼賛しているのではない。
「困るんだよな、六〇年代の人ってさ」(p.534)と一席ぶつイザヤ君の言は、60年代に青春時代を送った人の上の世代(例えばピンチョン)や下の世代(例えばイザヤ君、そして僕も)の多くが感じていることであろう。「80年代的」なものを用意したのは他ならぬ「六〇年代の人」なのであり、ここではイザヤ君はそれを見抜いている。
60年代のオプティミスティックな理想主義に終わりを告げた出来事の一つがシャロン・テート殺害事件であろうが、チャールズ・マンソンの名もちらっと出される。「もちろんそのまま帰ってもらったがね」(pp.442-443)とムーチョは言うのだが……


本書のエピグラフに掲げられているのはジョニー・コープランドのブルーズの歌詞からとられている。「犬っころにも運のいい日はあるだろうさ/善い犬だったら二日くらいあってもいい」

このことを考えるとゾイドとプレーリーの飼う、終盤でひょっこり帰還をはたす愛犬デズモンドの存在が俄然注目される。
デズモンドの辿った過程をどう解釈すればいいのか、僕にはどうもうまい考えが浮かばない。
一矢報いたのか、野生が解放されたのか。人類のかけがえのない友の象徴なのか、所有と被所有という関係の非対称さの表れなのか。
「ファシストの豚」という比喩をめぐって議論が交わされるが(p.287)、犬もまた「警察の犬」のようにネガティブな比喩に用いられることもある。「豚って本当はグルーヴィーな生き物なんじゃない?」(p.287)という擁護論はピンチョンのそれでもあろうが(ピンチョンは豚好きでサインにイラストを書き添えたりしている。ここここ参照)、犬もグルーヴをもたらしてくれるのだろうか。
「世界の豚どもに死を!」(p.287)与えようという人々にとって、「犬」はいかなる存在になるのか。

それでも、やはりこの最後は暖かい気持ちになるのが自然のことのように思える。暖かくもくすぐったい目覚め!
ピンチョンはこの両義的世界に対してシニカルに肩をすくめるのではなく、希望の火を灯したとするほうがいいように感じられた。

原著の刊行は90年であるが、ピンチョンは自身のエージェントのメラニー・ジャクソンと結婚し、91年には長男を設けている。娘のおむつ替えに喜びを見出すゾイドの親としての喜びの描写は作家の個人的生活の変化が影響している、、としてしまうのはあまりに退屈な伝記的批評かもしれないが、『メイスン&ディクスン』にしろ『逆光』にしろこのころのピンチョンの家族観は初期の作品からの変化が窺えるかもしれない。


最後に、「ピンチョン全小説」は本邦初訳か新訳であるが、本作のみ旧訳と同じ佐藤良明氏による改訳である。僕は98年の版を持っているもので買い直すか少々迷ったのだが、「毒をくらわば皿までも」ということで(?)思い切って買うことにした。まあ買い直さなければ読み返そうという気力を持ちにくかったということかもしれないが。
新版の巻末の「ヴァインランド案内」は独立した読み物としても成立しているし、訳注という形でない分整理もされており、読むうえで大いに助けになってくれた。とはいえ旧訳の注からも引用したように、細かく膨大な注のつけられたこちらも捨てがたしなんだよなあ。



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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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