『シャーロック・ホームズの誤謬』

ピエール・バイヤール著 『シャーロック・ホームズの誤謬』




シャーロック・ホームズはイメージされるほど有能な探偵なのだろうか。どうやら答えはノーのようだ。
本書の注に引かれているジェイムズ・マッカーニーによると、「一八九一年七月から一八九三年十二月までに発表された二十四の短編のうち、ホームズはゆうに半ダースで部分的、あるいは完全な失敗を犯している」(p.63)とのことである。

ミステリーの古典を読み直すという作業自体は珍しいものではない。
主にミステリーマニアによって担われる作中の穴をつくものもあれば、人文学系の批評で扱われる作者、読者、作中人物の文化的、社会的限界、または可能性を明るみにだすようなものも多い。
バイヤールが本書によって試みるのは、『バスカヴィル家の犬』においてホームズが取り逃がした犯人を明らかにすることであるが、これは単に作品の重箱の隅をつつくものではないし、またミステリーの範疇から逸脱しての評論でもない。著者はこれを「推理批評」と名づける。

バイヤールは作品の虚構の世界と我々読者がいる現実の世界との間に中間的世界があるとする。虚構の世界が現実に侵食していく場、そこではコナン・ドイルも超然とはしていられないどころか、まさに最も影響を受ける人物なのである。
ここらへんはスタンリー・フィッシュっぽくもあり、また著者のフィールドでもある精神分析とも深く絡んでいく。また本書の締めくくりなどはデリダも想起させる展開になっている。

文学批評などにはあまり関心がない人には中盤は少々まどろっこしく感じられるかもしれないが、そこを越えて犯人を明らかにする章は実にスリリングであり、探偵小説の評論ならぬ探偵小説そのものを読んでいるかのようだ。バイヤールは「ホームズの方法をもっと厳密にあてはめ」謎を解いていく。ここである人物が犯人と名指しされるのだが、まるでコナン・ドイル自身もそれを意識していたかのように、作中にはその「証拠」が溢れている。
僕が『バスカヴィル家の犬』を読んだのは相当に昔のことで、細部はほとんど忘れてしまっていたのだが、どうも腑に落ちない点が多かったような記憶はある。バイヤールのこの推理のほうがホームズのそれよりもはるかに蓋然性が高いように思えてくる。


ミステリーというのはしばしパズルにたとえられるのだが、むしろマジックに似ているのかもしれない。
目の前の不思議な現象にただ驚くのもありだし、そのタネをしつこく追い求めるのも一興だ。
目の前で消えた鳩は舞台裏でけろっとしているかもしれないし、もしかすると毎回圧死しているのかもしれない(映画『プレステージ』!)。

『バスカヴィル家の犬』ではホームズは妄想に執着し、幻想を見ていて、周囲の人間も読者も(あるいはドイルも)あまりにそれに引きづられすぎてしまったようである。
ではバイヤールはここで完璧な探偵ぶりを発揮しているのだろうか。『バスカヴィル家の犬』の真犯人を突き止める件はそのようにも思える。
しかしバイヤールが「推理批評」の原点とする『オイディプス王』の解釈はどうであろうか。バイヤールはこの物語での証言の矛盾を取り上げ冤罪の可能性を示唆するのだが、平岡敦はこれに対して訳者あとがきにて、証言者が嘘をつく動機を取り上げてオイディプスがやはり父殺しの犯人と考えられるのではとしている。ここでは平岡の「推理」の方が説得力があるように思える。
ちなみにバイヤール自身精神分析家であり、精神分析において『オイディプス王』が占める特権的役割を考えるとこれについてもいろいろ面白いがこれはまた別のお話。

ネタのわかりきっているマジックが観客の興味をそぐように、完璧すぎるミステリーというのも読者の関心を引かないものとなってしまうのかもしれない。作品の「穴」とされる瑕疵は必ずしも欠点のみであるのではない。
「誰がアクロイドを殺そうと知ったことか」と言われようが、未だにミステリーは多くの人の興味をさらっているし、それは必ずしも低レベルな気晴らしに留まるのではない。ミステリーの可能性を広げてくれるのは、実はそのような「瑕疵」なのかもしれない。

……ってな小理屈抜きにして楽しむこともできる本でありました。

そういえばこの前に手がけた推理批評は『アクロイド殺人事件』についてでしたね。こっちもそのうち読んでみよっと。






プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR