『ゴダールと女たち』

四方田犬彦著 『ゴダールと女たち』

ジーン・セバーグ、アンナ・カリーナ、アンヌ・ヴィアゼムスキー、番外としてジェーン・フォンダ、そしてアンヌ=マリ・ミエヴィルという五人の女性を、ゴダールとの関わりを中心に描く。

資料的に考えるなら、本書において最も貴重なのはアンヌ=マリ・ミエヴィルを描いた章であろう。
ゴダールとは40年以上もの間公私に渡ってパートナーを務めているにも関わらず、「黙殺」されがちな彼女が、単なる私生活における同伴者に留まらない刺激をゴダールに与えている存在であることを明らかにする。

お堅いシネマ・スタディーズにおいてミエヴィルがどのような扱いを受けているのかはよくわからないが、僕が目にする機会の多い一般向けのゴダールについての文章では、確かにその存在は申し訳程度に触れられているにすぎないことが多い。
この理由というのは単純なもので、やはり少なからぬ人がゴダールといえば『ウィークエンド』のころまでが最高であり、あの頃の作品を中心に考えたいということなのだろう。ちなみに他ならぬ僕自身がそうである。


その他に描かれる四人の女性の存在は二つの対になっているように思えた。

まずはアメリカ人のジーン・セバーグとジェーン・フォンダについて。この二人はゴダールとは監督と女優を越えた関係ということではなかった。
鳴り物入りの扱いをされながら出来としては冴えない作品に二作主演したジーン・セバーグは、若き日のゴダールに鮮烈な印象を与え、主演に起用された『勝手にしやがれ』によってあの時代の空気を代表する存在になる。
しかし彼女のその後の生涯は困難に満ちたものとなる。とりわけ大きかったのは黒人解放運動に強くシンパシーを抱いたことであった。当時は白人セレブが「過激」な人種解放運動に肩入れすることは、許されざる越境だったのである。

1970年にセバーグはニナと名づけられる娘をもうけるが、薬物中毒に自殺未遂なども重なり、帝王切開で早産するが二日後に亡くなってしまう。この時子どもの肌は白いのか黒いのかというゴシップがメディアを賑わせた。この噂はFBI長官のエドガー・フーヴァーが意図的に流布させたものだということが明らかになっているという。
四方田はこの赤ちゃんの父親はクリント・イーストウッドであったのではとしているが、そのイーストウッドは約40年後にフーヴァーの伝記映画『J・エドガー』を撮ることになるのであります。ここいらへんの経緯を意識したものかはわかりませんが。
すでに離婚していた元夫のロマン・ギャリーは自分の子でないことを承知しながらニナは自分の子であったと記者会見を開き、ニナは「憎しみによって殺害された」とメディアを非難した。

セバーグは最終的には1978年に自殺とも事故とも殺人の被害者ともつかない謎の死を遂げることになる。この時もギャリーはセバーグはFBIに殺されたと訴えるが、その彼も翌年には自殺をしてしまうことになる。

三番目の夫だったデニス・ベリーはセバーグの死後、なんとアンナ・カリーナと結婚するのだが、「「ゴダールのゴミ拾い」と綽名されることになる」(p.42)ってのはなんと言ったらいいものやら。

一方の「番外」として短く触れられるジェーン・フォンダ。
ご存知の通り名門一家に生まれ、ヴェトナム反戦運動でも名をはせる。同時に彼女はセバーグとは違って許されざる越境を犯すことはなかった。「アメリカの良心の表象であると見なされ」、「「ハノイ・ジェーン」を悪しざまにいう者は誰もいなかった」(p.45)のである。
ゴダールはジェーン・フォンダを『万事快調』に起用するのだが、二人の間には共振するものなど何もなかったようだ。ゴダールはその後もジェーンを「ただひたすら罵倒」し続けるのだが、それさえも噛み合わない。
ジェーン・フォンダはエクササイズのビデオで成功するなど「セレブ」として見事逃げ切るのだが、ゴダールがあまりに不幸なジーン・セバーグの仇をうとうとしたということではもちろんないのだろうが、二人の対照的な生涯を考えると、そう思いたくなるほど人生の不条理というものを感じてしまった。

前にイヴ・モンタンの伝記を読んだのだが、この『万事快調』はなかなかすごい環境で撮られた作品なのですよね。ゴダールがわざとやっている部分も多々あるのですが。


もう一つの対の関係となっているのがアンナ・カリーナとアンヌ・ヴィアゼムスキーという、ゴダールとの結婚組。
アンナ・カリーナといえばゴダールのみならず時代のミューズといってもいいかもしれない。ゴダールとの離婚後も、現在に至るまでカリスマ視する人は多く、「もうすぐ神聖な怪物になろうとしている」(p.104)とのことである。
そのアンナ・カリーナの次のパートナーとしてゴダールが選んだのがアンヌ・ヴィアゼムスキーであった。

面白いのは二人の当時に対する姿勢の違いである。四方田がインタビューした際、アンナ・カリーナは「ジャン=リュックのこと? なんでも聞いてよ」と「ガハハと笑いながら」答えたそうだが(感想自粛)、ヴィアゼムスキーは「ゴダールと過ごした歳月に複雑な拘泥を示しているようだ。
ヴィアゼムスキーは作家として成功を収め、デビューの経緯を描いた『少女』はなかなか面白かった。ゴダールもちらっと顔を覗かせていた(感想はここ)。

二人のこの温度差はおそらくは一緒にいた当時のゴダールの差でもあるのだろう。
アンナ・カリーナとの結婚時はあくまで映画界の革命児であったが、アンヌ・ヴィアゼムスキーと一緒になったころから政治的に先鋭化し、ついには「ゴダール」という固有名を捨て、パレスチナなどへの彷徨に一時はヴィアゼムスキーも付き合うことになる。
アンナ・カリーナにとては監督と女優であり夫と妻であったが、ヴィアゼムスキーにとっては二十代前半という時期に、さらには政治的同士としての役割も求められたということを簡単に割り切ることは難しいのかもしれない。

そういえば前に『はなればなれに』の感想(ここ)でゴダールは「おたく的女性観」(とりあえずなのであえて単純化)と親和性が高いのでは、と書いた。一方では純真な「おぼこ」風な女の子を求め、同時にファム・ファタル的小悪魔性というものにも憧憬を抱き。支配したいと同時に振り回されもしたいとでも言おうか。
「ツンデレ」なんて概念を当時のゴダールが知っていたらヴィヴィッドに反応したのかもしれない。
アンナ・カリーナ主演作のいくつかはまぎれもなくそのように読み取れるし、ヴィアゼムスキー主演の『中国女』においても、少女と女の狭間にいる生硬な活動家の姿であると同時に、やや口を半開きにしてペンを口元にやっている姿の執拗なアップにはどこかセクシャルな臭いも感じてしまう。


最後脱線してしまったが、こんな感じにも楽しく読める一冊でした。
パゾリーニとヴィアゼムスキーの爆笑ものの出会いの場面なんか、ほんとにすごい時代だったのですよね。






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佐藤太郎(仮)

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