「デタッチメント」と「コミットメント」、あるいは蛮勇について

適当に感想を書こうと思ったら収拾つかなくなってしまったものの、うまくまとめられそうにもないのでぶん投げておく。用語等かなりの部分でよく整理されていないところが多いと思いますが、これは僕自身がうまく整理しきれていないせいであります。


加藤典洋著 『村上春樹の短編を英語で読む 1979~2011』


このタイトルには少々注意が必要かもしれない。
本書の「ニューヨーク炭鉱の悲劇」を扱った章でその英訳の問題点を指摘しているが、このように日英のテクストをつきあわせての批評というものが全般的に行われていることが想像されてしまうかもしれないが、そのような点はごく一部で、基本的には村上春樹の短編を年代順に精読し、読み解こうという試みである。

このタイトルは、本書が加藤が留学生など日本語を十分に読みこなせない学生中心のクラスで英語で授業を行なった経験(テクストは英訳を用いることになる)から生まれたためにつけられている。
春樹における英訳の問題というのは考え出すとなかなかやっかいなのだがそこらへんはまた別に。


村上春樹といえば、ある時期以降「デタッチメントからコミットメント」へと変化したということが言われる。実はこの言いだしっぺは春樹自身であり(河合隼雄との対談)、その言葉が加藤の見解からすれば少々粗雑に用いられたために誤解を招いているということになる。
95年の阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件によって、これまで社会に背を向けていた春樹が現実社会と向き合うようになったという印象を漠然と抱いている人も少なくないだろう。しかし加藤は春樹は当初から現実と向き合って作品を紡いできたという立場をこれまでも取っており、本書においてもその立場に変化はない。

本書の「序」は短編ではなく、『ねじまき鳥クロニクル』と『1Q84』を起点に「井戸の消滅」という観点で村上作品を俯瞰している。
「井戸」は初期から村上作品には頻出するモチーフであったが、これが『ねじまき鳥』以降消滅する。一見すると大きく足場を踏み換え、作品のモチーフ自体も変化したようにも感じられるが、はたしてそうであろうか。
「井戸」はデタッチメントの象徴のようにも思えなくもない。社会から隔絶された、壁をはりめぐらされた空間へと降りていく。しかし、『ねじまき鳥』に顕著なように、「井戸」はまた異界への入り口でもある。こう考えると「井戸」に篭ることが「デタッチメント」であり、「井戸」から出て社会への「コミットメント」を始めるようになったというのは単純な図式に回収しすぎということになろう。
加藤はここで、「井戸」から出るのではなく、「井戸」を掘り進むことによって地下水脈へと到達し、それが大きな世界、他者とのつながりにも到達できるかもしれないとの見方を示す。「井戸」の消滅は変化ではあるが、それは180度の変化、これまでとはまるで別の地平に行き着いたということでは必ずしもないだろう。

加藤は1984年を舞台とした二つの作品、『ねじまき鳥』を「隠喩的世界」、『1Q84』を「換喩的世界」とする。「隠喩的世界」は「まだ現実が「ほんもの」感をともなっていた」のに対し、「換喩的世界」は「「ほんもの」感を失った世界のことだと言ってみることもでき」るとしている(p.57)。無意識へと降りていく「井戸」から、「世界全体が井戸になってしまって」いる世界を描くことへと転換していったということなのかもしれない(p.60)。


加藤は、村上はデビュー当初「言葉」と「物語」のどちらを取るかの選択という問題があったのではないかとする。『風の歌を聴け』は「言葉」を選んだ作品であり、これは語られている内容ではなく語り方こそが問題であるということになろうか。そして初の本格的な長編である『羊をめぐる冒険』では「物語」が選ばれ、以降春樹は「物語」の道を歩むことになる。加藤はここで「言葉」を選んだ作家として高橋源一郎の名をあげているが、二人の作風の変化(あるいは変化のなさ)を考えると、そこらへんもなかなか興味深い。

本書の最大の注目点は「デタッチメント」と「コミットメント」という言葉を、一般の村上春樹へのイメージとは異なる文脈で使用していることだろう。
加藤は初期の作品で村上が試みたのはあくまで「書法」としての「デタッチメント」であったとする。つまりこれまでの日本文学における文体には頼らず、独自の文体を編み出していこうという試みであった。これが「言葉」を選ぶということであり、書法としての「デタッチメント」であった。そして「物語」への転換によって、書法は「コミットメント」へと変化していった。

これを逆から見るならば、実は初期の村上作品においては、「態度」における「デタッチメント」(これが一般にイメージされる「デタッチメントからコミットメントへ」の「デタッチメント」である)は必ずしも確立されてはいなかった。これが前景化されるのが短編でいえば「午後の最後の芝生」であり(確かに主人公は「いかにも春樹的」である)、長編では『羊』ということになる。
最初期の短編である「中国行きのスロウ・ボート」、「貧乏な叔母さんの話」、「ニューヨーク炭鉱の悲劇」はむしろアナクロニズムといってもいいほどの、ナイーブなほど志の高さ(それ故それは「失敗」する運命にある)に貫かれていたとしている。


ここで話を脱線して、僕の個人的な村上作品との出会いについて触れてみたい。
十代の半ばに、ふと手にしてみたのが『風の歌を聴け』であった。僕はこの作品にすっかり打ちのめされ、以降村上春樹の世界にズブズブとはまりこむこととなる。ではなぜそれほどまでにこの作品に心引かれたのだろうか。加藤によればこの作品は「言葉」への意識、書法としてのデタッチメントの意識が色濃い作品となる。おそらく、僕が参ってしまったのはそこではない。
1980年前後においてはこのような「戦い」は極めてシリアスなものであり、このことによって村上春樹は好まれ、また嫌われもした。しかし僕が春樹を読み始めた90年代半ばは、すでにこのような「戦い」は失効していたであろう。あたりを見渡せば春樹の模倣者であふれていたはずだ(またこのこと故にさらに嫌われてもいたのだろうが)。
僕が心引かれたのは、「ナイーブなほどの志の高さ」だったのかもしれない。

『風に歌を聴け』は奇妙なほどに誤読されがちな作品である。あからさまなほどのヴォネガットの模倣やブローディカンからの影響などによって目をくもらされているのかもしれないが、この作品の語り手である「僕」は、作品の主要舞台となる1970年の夏、そのわずか半年ほど前に恋人を自殺という形で失っているのである。
「僕」は決して「クール」にシティ・ライフをエンジョイしていたのではない。僕がこの作品から受けた印象をチャンドラーをもじって言うなら、「タフでなければ生きていけない」ならぬ、「クールでなければ生きていけない」ということになろう。生き抜くためには「クール」にならなければならないのである。
当時(というか今もだけど)、僕は自分という存在やその人生の重みに耐えられないという感情がこびりついて離れず、とにかく、たとえそれが一時的なペンディングであろうとも、なんとか「クール」になりたい、ならなければと思っていた。まさにこの部分こそが、僕の感情をフックしたのであろう。
「アナクロニズムといってもいいほど」と書いたが、このような自意識をどう御していくかというのは文学においては古典的といってもいいテーマである。

加藤は本書において、『風の歌を聴け』には「金持ち」と「貧乏」という言葉が頻出することをあげている。成金の家に生まれ、そのことに罪悪感を憶え金持ちを嫌悪する鼠と貧乏の感覚が染み付いている小指のない女の子、そして中産階級の子どもである「僕」のトライアングルは古風ともいえるモチーフでもある。
当時の人物造形が「デタッチメント」に貫かれたものではないということの傍証でもあろう。

デビュー当時村上春樹は主に年長の世代から「バタ臭くていけすかない」というような嫌われ方をしたものだが、春樹の文学的影響関係まで視野に入れたうえで批判を行ったのは大江健三郎くらいだったのかもしれない。
春樹は間違いなく大江から強い影響を受けいる。『羊』における「僕」とアルコールに沈む共同経営者との関係は容易に『万延元年のフットボール』を連想させる。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の続編とも当人が位置づけた『海辺のカフカ』は香川が舞台になるが、これは当然ながら大江における愛媛を思い浮かべてしまう。
僕は大江も春樹も好きだが、なぜ大江が春樹をそこまで否定しようとするのかが今ひとつ釈然としない気がしていた時期もあったのだが、当初から春樹に危うさを感じ懐疑的であった大江が、『世界の終わりと』のころから激しい批判者となったのは、大江としては「ナイーブなほどの志の高さ」を求める方向へ進んでほしいという期待が裏切られたということなのかもしれない。
大江と春樹のいささか居心地の悪い対面についてはジェイ・ルービンの『ハルキ・ムラカミと言葉の音楽』に書かれている。


閑話休題。話を加藤の本に戻そう。
本書において白眉だと感じたのは「ファミリー・アフェア」を扱った章である。
この作品の主人公は、村上春樹の作品に悪い印象を持っている人がイメージするところの典型的な「春樹的人物」のようにも思える。世の中のことになど関心を向けず、自分さえよければいいというミーイズムを貫徹しているように映るかもしれない。
しかしこの作品の主人公の姿勢はまさに「態度」における「デタッチメント」であるが、それは必ずしも「ミーイズム」とイコールではない。

主人公は妹から「遊ぶことしか頭にないのよ。何かを真面目につきつめるとか、向上するなんて考えはゼロなの」となじられると、「夏の日のキリギリス」と返し、否定しない。
しかし「そして真面目に生きている人をはすに見て楽しんでいるのよ」という言葉には「真面目に」反論をする。「「それは違うね」と僕は言った。「他人のことと僕のことは別問題だ。僕は自分の考えに従って定められた熱量を消費しているだけのことさ。他人のことは僕とは関係ない。はすにも見ていない。たしかに僕は下らない人間かもしれないけど、少なくとも他人の邪魔をしたりしない」」。

加藤はこのような主人公の生き方を、モラルではなくマクシム(格率)に従っているとしている。強引に短くまとめるなら、他人がどうあるか、他人がどうあるべきかということではなく、自分が行うべきことを行うということになろうか。
春樹はチャンドラーをはじめハードボイルド作家から影響を受けているが、このような生き方は極めてハードボイルド的である。フィリップ・マーロウは自分が何をしようともLAという街が薄汚れたままであることなど嫌というほどわかっている。それでも彼は、彼なりの倫理観に従ってズタ袋のように扱われようともベストを尽くすのである。

『風の歌を聴け』の「僕」について、「クールでなければ生きていけない」と書いたが、「クールに生きていく」ということは、このようにモラルではなくマクシムを重視するということなのかもしれない。
村上作品は当初の書法におけるデタッチメントから態度としてのデタッチメントへと変化していった。
この変化も、まるで別の地平へ降り立ったのではなく、両者が絡み合っていると考えるべきであろう。態度としてのデタッチメントとは「クールでなくては生きていけない」ことへの一つの回答であるのかもしれないが、その回答のみを歪んで抽出すると、あたかもそれはミーイズムのように映ってしまうのである。

しかしこの生き方は、「ファミリー・アフェア」において危機を迎える。妹の婚約者という闖入者によって主人公は現実を突きつけられる。「クール」に生きるということはやはりペンディング(宙吊り」であって、根本的解決ではないのかもしれない。「カントが言うように、それは、自ら壊れる」(p.346)とあるように、深刻な「機能不全」を引き起こすこととなる。

書法としてのデタッチメントと態度としてのデタッチメントは絡み合っていると考えるべきと書いたが、注目すべきは「ファミリー・アフェア」の執筆時期である。
加藤は「ファミリー・アフェア」を、マクシムの崩壊を象徴する作品として、そして「他者」と向かい合わざるをえない『ノルウェイの森』へと架橋する作品であるとしている。
「言葉」から「物語」を選んだ村上春樹の到達点ともいえるのが、『ノルウェイの森』の、そして「ファミリー・アフェア」の前に書かれた『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』であることは間違いない。
「ファミリー・アフェア」の主人公は変化を迫られるが、また作家村上春樹も一つの転機を迎えていた。
『村上春樹イエローページ』を参照すればわかるが、加藤は『世界の終わりと』と『ノルウェイの森』は同じテーマで描かれているとしている。この解釈が妥当だとすると、なぜこの二つの作品の手触りはこうも違うのだろうか。
僕はその答えは「蛮勇」にあるのだと思う。


村上春樹の長編の最高傑作は何かと問われたら、僕は『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と即答する。個人的な思い入れという点では『羊』にもあるが、その完成度という点では他の長編と比べると郡を抜いている。村上春樹は『世界の終わりと』を書き上げたことで一つの達成感を得たことだろう。そして同時に問題にもぶちあたったはずだ。これ以上を目指すべきなのか、それとも方向を変えるのか。

『ノルウェイの森』のストーリーというのはあんまりといえばあんまりである。「精神を病んだ女の子との悲恋? そんなのただのお涙ちょうだいじゃないか」という反応があっても不思議ではないだろう。
『羊』や『世界の終わりと』はよく練られたウェルメイドな作品である。『ノルウェイの森』はその点瑕疵の目立つ、相当にいびつな作品である。
『ノルウェイの森』は適当に書き飛ばされた結果こうなってしまったのではなく、これはあえてそのように書かれたのだと僕は考えている。「ごつごつしてようが少々不恰好であろうが構わない、より物語の世界に耳をすまし、その流れに身をまかせるんだ」、そんな意識で書かれたのではないか。そして僕はそれを「蛮勇」をあえてふるっていると考えている。

『ノルウェイの森』以降、基本的には春樹はこの路線を歩み続けているように思える。
たとえば『ねじまき鳥』を考えてみよう。僕はこの作品を高く評価するが、この作品が『世界の終わりと』と同じ意味でよく練られているのか、と訊かれれば「ノー」と答えるだろう。『ねじまき鳥』は、とりわけ第三部をどう扱うか(一端完結したと思わせてからの続編)というのがなかなか微妙なのだが、そこらへんの経緯を込みで「ウェルメイド」とは言いがたいかもしれない。しかしその圧倒的なスケール感、そしてほとんど暴力的と言ってもいいほどの存在感は「蛮勇」の最高の結実だといってもいいだろう。

一方で、正直に言うと、『ねじまき鳥』以降の春樹の長編に対してはいささか辛い点をつけなければならないと感じている。『海辺のカフカ』にしろ『1Q84』にしろ、これらも「蛮勇」によって書かれていると考えるべきであろうが(お世辞にも「ウェルメイド」とは呼べない)、『ねじまき鳥』とは少々異なって、そこには作家の姿勢としての葛藤というものがあまり見えてこないのである。『ねじまき鳥』のギリギリとした緊張感や切迫感は失われているというのは否定できない。


ここまで読んでくれた人(がどれだけいるのか知らないが)には想像がつくだろうが、僕は加藤の村上作品の解釈において、少なからぬ部分で同意できている。しかし異なる部分もある。その一つが『ねじまき鳥』以降の作品への評価である。

『世界の終わりと』という大傑作を書いた春樹は『ノルウェイの森』という作品で「蛮勇」をふるうことを選ぶ。またそれと呼応するように、作中の人物の意識も変化を迎える。ここからわかるように、春樹が「デタッチメントからコミットメントへ」向かったのは、95年の巨大なショックによるものだけではないのである。それも確かにあろうが、あくまでそれは一部の限られた部分での話しなのであり、その部分での「デタッチメント」や「コミットメント」という語の用法と、作家としての変化としての「デタッチメント」と「コミットメント」とが多くの人に混同されていることが話をややこしくしているのだが、繰り返しになるが、この変化はまるで別の地平に降り立ったのではない。弁証法的といっては語弊があるかもしれないが、「デタッチメント」と「コミットメント」とが絡み合いながら姿を変えていったのであり、180度の転換ということではないだろう。


加藤は『ねじまき鳥』以降の作品も高く評価しているが、それはおそらくは、村上のふるうこの「蛮勇」をこそ高く買ってのことなのかもしれない。僕としてもこの「蛮勇」は評価してもいるのだが、これを徹底的に貫くほどのものなのかといえば少々躊躇を憶える。


「蛮勇」への評価という点から考えると、加藤自身も「蛮勇」をあえてふるっているふしがある。
「初期短編」における「志の高さ」としての政治性として、「中国行きのスロウ・ボート」における個人として抱いている中国人への罪悪感と戦争を忘却しようとする日本人の集合意識への警鐘を読み取ることはそうトリッキーな解釈ではないだろう(主人公は精神分析が舌なめずりしそうな方法で中国人の女の子の電話番号を捨ててしまう)。あるいは「貧乏な叔母さんの話」が高度経済成長とバブルの狭間という時代において、貧しさについて語ることの困難さと同時に「プロレタリアート」へのシンパシーの表明というのも同様であろう(「僕は詩を書いてもいい。貧乏な叔母さんたちの桂冠詩人だ」)。
しかし「象の消滅」において、「象問題」が象徴しているのは「憲法問題」のような「戦後的なものの失踪・消滅を暗示しようとした」(p.282)というのはいくらなんでも無理がありすぎるだろう。加藤もそのことをわかったうえで「あえて」の解釈であることも示唆している。
加藤は村上春樹における「蛮勇」にこそ世界を広げるという大きな可能性を見出し、村上作品を読み解く上で自らもそれを実践しているともと考えてもいいのかもしれない。


村上春樹作品の読み方ということでは、円グラフ風に分割してみるなら、僕と加藤では四分割すれば同じ位置にあるが八分割すれば違う位置になるという感じであろうか。そういう点では納得できる点や「さすがにそりゃ無理でしょ」という部分を含めて、自分が村上春樹をどう読んできたのかということを改めて考えさせてくれたようにも思えた。

なにぶんにも大部なもので(約600ページ)「いきなりそんなにはねぇ」という人はとりあえずはすでに触れた「序」と「ファミリー・アフェア」を扱った八章、それから「めくらやなぎと、眠る女」を扱った12章あたりをまず読んでみるのもいいかも。
「めくらやなぎと」そのものがファンにはたまらない作品であり、また改稿作業を通じての村上作品の変化を読み取るという点では本書のエッセンスともいえよう。ついでに加藤の少々の強引とも思える読解という部分もあったりもする章であります。
僕としても春樹の短編を一本選べといわれれば「めくらやなぎ」になるかなぁ。読み返したくなってきた。


あと個人的に薄々気づいてはいたが実際に突きつけられるとやはりショックだったのが、加藤がプリンストン大学の東アジア研究所でのランチ・トークでティム・オブライエンの『カチアートを追跡して』を読んでいる人はいるかと質問すると「読んでいる人が皆無だったので驚」いたというところ。オブライエンはものすごく好きなんだけどなぁ。ここに最近のインタビューありますね。






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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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