Just Kids

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本書はパティ・スミスの「自伝」なのであろうか。イエスでもありノーでもある。
謝辞にはこうある。「ロバートが亡くなる前に、いつの日にか私たちの物語を書くと約束した」。そしてまえがきは、パティがロバート・メイプルソープと最後に交わした電話の記憶から始まる。
これはパティの物語であり、メープルソープの物語であり、なにより二人の物語である。


二人の出会いは「反則」のようにも思える。
身一つでニューヨークに出てきたパティはようやく本屋に仕事を見つけるが、店に寝泊りしなければならいような状態だった。
ある日、民芸品も扱っている詩のセクションを担当していると、前にちらっと会ったことのある若い男がやって来る。彼はパティが気に入っていたペルシャのネックレスを選ぶ。パティは思わず「私以外の女の子にあげちゃダメ」と言ってしまう。若い男は微笑んで「そうだね」と言って去っていく。
数日後、パティは「SF作家」を名乗る男に食事に誘われる。警戒したものの、空腹には勝てなかった。居心地の悪い食事を終えると次第に不安になってくる。見返りに何を要求されるのか。公園のベンチに座ると男は家で飲まないかと言い出してくる。その時、あのネックレスをつけた若い男が近づいて来るのに気づく。パティは駆け寄って若い男の腕を取る。「ねぇ、私のこと憶えてる」「もちろんだよ」「助けてほしいの。恋人のふりをしてくれない?」「いいとも」と、若い男はパティが突然現れたことに驚いた様子もなく答える。「恋人が怒ってちゃうから」と「SF作家」に言い捨てて二人は駆け出す。
息をきらして誰かの家のポーチに倒れこむと、「まだあなたの名前を知らなかったわね。私はパティ」「僕はボブ」「ボブねぇ。あなたボブって感じじゃないんだけど。ロバートって呼んでもいい?」

……と、こっちが気恥ずかしくなるような出会いをするのでありました。
ビル・クリントンがウィリアム・クリントンと呼ばれていたら大分イメージは違うだろうが、メイプルソープの場合もやっぱりボブよりロバートですよね。


二人はすぐに共に暮らし始めることになる。二人とも鬱屈し、芸術的野心を抱きつつもそれをどの方向へ行けばいいのか見えていないという点では一緒だったかもしれないが、同時に二人が強く惹かれあったのは共通点よりも差異にあったのかもしれない。
パティは映画が好きだったが、メイプルソープはほとんどの映画には興味がなかった(『真夜中のカーボーイ』に興奮したのは自分に引き寄せられた例外的なことだったのだろう)。メイプルソープはアンディ・ウォーホルを崇拝していたが、当時のパティにとってウォーホル的文化はむしろ避けたいものであった。
一番顕著なのが家族に対する感情だろう。パティは大学時代に望まない妊娠をして子どもを養子に出さなければならないという経験をし、さらにほとんど何も持たずにニューヨークへ飛び出すという突飛な行動に走るのだが、それでも家族との関係良好であった。一方のメープルソープは家族から疎外されていると感じていた。
パティが実家にメープルソープを連れて行くと、彼は神経質になりアシッドを飲んでしまう。「私にしてみれば両親の前でそんなものを飲むなど有り得ないことだったが、ロバートにしてみれば普通のことだったのかもしれない」

パティは後にフレッド・”ソニック”・スミスと結婚し、「家庭に入る」ことになる。このことに戸惑ったり、「裏切り」として受け止めた人もいただろうが、パティにとってはむしろ昔から変化しなかったということなのかもしれない。パティと家族との関係は『ドリーム・オブ・ライフ』でも伝わってくる。
お互いにとって、それぞれに無いものを与えてくれるように思えたのかもしれない。


この頃の二人は「普通に変わっている」というか「凡庸なエキセントリシティ」とでも言っていいのかもしれない。どうにも「ありきたり」という印象を受けてしまう。
パティはビートニクに憧れ、ジャン・ジュネを読み、ゴダールやパゾリーニの映画を見るのだが、これなど「いかにも」な感じである。メイプルソープも60年代後半という時代にありながらヴェトナム戦争には興味を持たず、それでいて「カミカゼ」の「ストイック」なイメージに惹かれるなど、これもまた「ありがち」のように感じられる。

自らのセクシャリティの問題に直面しなければならなくなったメイプルソープはパティをサンフランシスコに誘う。「あそこには自由があるんだ。僕はあそこで自分が何者であるのかを見つけなくっちゃ」。
しかしパティは「サンフランシスコといって私が知っていることといえば昔に大きな地震があったこととヘイトアッシュベリーくらいのものだった」とし「私はもう自由なんだけど」と答えてしまうという場面がある。
僕にはパティが実際にこのように答えたかは疑わしいようにも思える。確かにパティは花咲きつつあったゲイ・カルチャーについては無知であったかもしれないが、サンフランシスコは既に「サマー・オブ・ラヴ」を象徴する都市の一つであり、ヘイトアッシュベリーはそこに結びつけられる。ヒッピーよりもビートニクということだったのかもしれないが、サンンフランシスコと聞いてのパティのこのそっけない反応は今ひとつ腑に落ちない。意識的にか無意識的にかはさておいて、当時の自分がいかに視野が狭かったのかを強調するためにこのようなやりとりを「創作」したのかもしれない。
つまり、二人には「ボーイ・ミーツ・ガール」だけではまだ不十分だったのである。弾はこめられたが、トリガーは引かれていなかった。そのトリガーとなったのがチェルシー・ホテルである。


チェルシー・ホテルの滞在を終えた時のことをこう振り返っている。「ホテルからは少し離れただけなのだけれど、物事がすっかり変わってしまったということはわかった」。
裏を返せばこの時の体験はそれだけ強烈だったのであり、本書にもクレイジーにしてカラフルなエピソードが詰まっている。

いくつか例をあげてみよう。
小銭を投じて小窓を開けて料理を取るセルフ式の店で、パティは小銭を入れたにも関わらず窓が開かない。いつのまにか値上げしていたのだが、その小銭がなけなしのカネであり、途方にくれていると後ろから「お困りで?」という声がする。振り返るとそこにいたのはアレン・ギンズバーグ!
あるいは、パティはある男とこんな会話をする。「そんな歩き方どこで憶えたんだい」「『ドント・ルック・バック』からね」。その会話の相手とはボブ・ディラン!
憧れてやまない人とこんな出会いができるなど、チェルシーがいかにマジカルな空間であったかがわかろう。

チェルシー・ホテルは二人にとって象徴的にのみマジカルな空間であったのではない。現実的にも、次への大きなステップを可能にしてくれた場所であった。
チェルシー・ホテルを去った後、パティはロック雑誌に執筆したり、レニー・ケイと出会いポエトリー・リーディングでの伴奏を頼むなど「パンクの女王」へといよいよ近づいていく。そしてメイプルソープは写真という表現手段に傾注していくことになる。二人にこのようなことを可能にさせたのはチェルシー・ホテル時代に築いた人脈であった。


本書はパティとメイプルソープの二人の物語である。それぞれの道を見つけつつあるということは、終わりもまた近づいてきたということでもある。
ただ個人的にはいよいよここからが本番という感じでもあったのですが。

「私たちはCBGBという小さなバーの前に引っ張りだされた。詩人のリチャード・ヘルがベースを弾いているテレヴィジョンというバンドを見に行くと約束していたのだった」
ここでパティはトム・ヴァーレインと初めて出会う。
「右側の一人離れているギタリストに親近感を覚えた。彼は背が高く、黄褐色の髪をして、長く優雅な指がギターのネックを、絞め殺すかのように包んでいた」
パティとヴァーレインは幕間に、詩についてではなくニュージャージーの森やデラウェアの荒れた砂浜や空飛ぶ円盤について話す。二人は二十分も離れていないところで育ち、同じレコードを聴き、同じマンガを見ており、二人とも『アラビアン・ナイト』が好きだったことがわかる。休憩が終わり、バンドはステージに戻る。「リチャード・ロイドがギターを手に取り、「マーキー・ムーン」のオープニングのフレーズを弾き始めた」
ってここらへんはもうたまらんですよ。
「ヘイ・ジョー」のレコーディングでスタジオの時間が15分余ったから「ピス・ファクトリー」を録ることにしたとか「グローリア」で弾かれていたベースはリチャード・ヘルから40ドルで買ったものだったとか『ホーセス』のメイプルソープの手によるあまりに有名なジャケット写真のセッションの様子だとか、ニューヨーク・パンクが好きな人にはこの章は失禁もののエピソード満載となっております。

ただこの頃はまた、「「僕とセックスしたい?」と彼(メープルソープ)は私にたずねた。驚くと同時にまだ私に欲求を持っていてくれていることがうれしかった。私が答える前に、彼は私の手を取り「ごめんね」と言った」というような切ないやり取りも交わされている。


パティがフレッドと結婚して、デトロイトへ引っ越す時のメイプルソープの反応も切ないが、ここで二人の物語は一端休止を迎える。
そして最後の一幕を迎える。メイプルソープがエイズにかかり、心身共に弱っていく彼とパティとの最後の友情が語られる。
パティが久々のアルバム製作に取り掛かり始め、フレッドとの間の第二子を妊娠している時、メイプルソープがエイズであることがわかる。
まさに誕生と死とが交差するこの章は一篇の短編小説としても読めるくらい感動的にして哀しい物語となっている。


本書は分量的にはニューヨーク・パンク以前が圧倒的に多く、70年代半ばから後半にかけての物語ももっと読みたいとも思うのだが、それはまた別の機会に期待しますか。パティやメイプルソープのファンはもちろん、70年前後のニューヨークのカルチャー・シーンに興味のある人なんかも十分に楽しめるでしょう。


本書の発表は2010年で、すぐに翻訳が出るだろうと思っていたらさにあらず。どうしたものかというところで先日丸善の洋書セールをひやかしに行ったら比較的安価であったので購入し読んでみました。
過去の例からすると必死こいて英語の本を読んだすぐ後に翻訳が出ることが判明することがままあるのですが、逆に考えればフラグが立ったということで、翻訳が出ることを祈りましょう。
僕の英語力はかなり怪しいもので、やっぱり翻訳で確認したいし。当時のことなどにはある程度は予備知識があるのですが、それでもわからない固有名詞など結構あったりしたもので、たっぷりの注と索引も付けてね。お願いしますよ、ほんとに。







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佐藤太郎(仮)

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