『J・エドガー』

『J・エドガー』

クリント・イーストウッド監督に脚本が『ミルク』のダスティン・ランス・ブラックで、フーヴァーについての作品とくればこりゃ見ないわけにはいかんでしょってなことで行ってまいりました。




フーヴァーの伝記的事実やFBIの負の歴史について予備知識があり、本作に「アメリカ現代史の闇を暴く」といったものを期待していた人は肩透かしをくらったことだろう。
自らのセクシャリティを抑圧しているが故に権威主義者となり、他者を抑圧する存在となるというのはありきたりの図式であり、「公」の問題として語れるべきことを私的な問題として回収してしまうのは「反動」とすら感じた人もいたかもしれない。
しかし注目すべきは、この構図というのは、セクシャリティという私的な問題を公の問題につなげた『ミルク』を反転させた形になっていることだろう。フーヴァーの天敵であるリベラルな闘士、エレノア・ルーズヴェルトは、フーヴァーを裏返しにしたような人物である。ここであえて、エレノア・ルーズヴェルトではなくフーヴァーに挑んだ意味を考えてみるべきではないか。
この作品は「フーヴァー」ではなく、あくまで「J・エドガー」であり、それは必ずしも「ジョン・エドガー・フーヴァー」という生身の人間を描き出そうとしたのではないのではないか。

この作品は、プロット上からすると必要以上なほど複雑なナラティブである。というより、ほとんど混乱しているといってもいいだろう。「脚本講座」の課題としてこの脚本を提出したなら、真っ赤になって返されて低い評価が下される可能性が高い。ではこの作品は、未完成な、ブラッシュアップの必要な脚本を見切り発車のまま撮ってしまったのだろうか。

老いたエドガーが自らの業績を口述する形で物語は進行するのだが、予備知識がある人はすぐに「胡散臭い」と感じるだろう。予備知識がなくとも、速記を担当するエージェントが疑問を挟むたびに交代させることなどから、エドガーここで「真実」を語る気などさらさらないことが示される。
しかしそれにしては妙な構成になっている。「再現」される若き日のエドガーは、老いたエドガーが語る姿であるはずだ。ところが、エドガーの語っている「そうであったかもしれない過去」の中に、明らかにエドガーが口述させていないであろうことまでもが内包されている。エドガーの「嘘」がにじみ出ているのである。そればかりか、明らかに口述を避けたであろうことまでが「再現」されてしまっている(女性からダンスに誘われ、それを振り切って帰った夜の母親とのやりとりなど)。これらはいったい誰の視点から撮られた映像なのか。あえて説明すれば語りはしなかったが脳裏に浮かんだことともできるが、それにしても奇妙だという印象というのを抱く人もいるはずだ。

カズオ・イシグロの『日の名残り』は、いわゆる「信用できない語り手」の手法を用いた傑作である。引退を控えた老執事が、長く仕えた主人を回想するが、この主人は客観的に見れば単なる親ナチなのであるが、執事はその現実を回避しながら過去を振り返る。それでも行間から欺瞞というものがにじみ出てきてしまう。
『J・エドガー』は、この主人が自らを振り返ったとしたらという「信用できない語り手」という構図を持っている。しかし行間からにじみ出る以上のものが噴出してしまってもいる。

僕はこの作品を見ながら、ある種の「神話的」な空気すら感じてしまった。ギリシャ神話の神々はどうしよもない俗物の集まりである。神は自らの姿に人間を似せたのではなく、人間の姿に神を似せたのである。
エドガーは「有能」な官吏ではあるが、人間としてはまったくもって卑小である。自己顕示欲の塊で自己正当化に努め、下劣にして下品である。この作品を通して浮かび上がってくるのは、リアルな生身の一個人というより、戯画化された象徴的記号であるかのようだ。

ジェイムズ・ジョイスは『オデュッセイア』を冴えないユダヤ人の広告マンの過ごすダブリンでのある1日の物語として語りなおした(『ユリシーズ』)。ジョン・アップダイクは『ケンタウロス』にて神話を現代に蘇らせたが、ここでも主人公は冴えない人物である。現代において神話を語りなおそうとすれば、それは荘厳なものではなく、卑小な俗物を滑稽に描くものとならざるをえないのかもしれない。神々の化けの皮はすでにはがされているのである。最後にエドガーがさらすぶよぶよの醜い肉体こそ、それを端的に表しているのではないだろうか。

エドガーが握手をした後にハンカチで手を拭うシーンは、同じくディカプリオ主演のマーティン・スコセッシ監督の『アビエイター』を連想せずにはいられない。この作品はスタッフ、キャストの気合の入り方からすると事前の期待を裏切る形になったといっていいと思う(個人的には嫌いではないのだが)。その原因は、スコセッシが現在において神話を語るのに、古代ギリシャの神々を召還しようとしたためなのかもしれない。そのような試みは「意余って言葉足らず」という形で終わるしかないだろう。

『J・エドガー』はフーヴァーの伝記映画というよりは、「エドガー」というプリズムを通した現代の神話なのかもしれない。
そう考えると、永遠の恋人であるトルソンがエドガーの「嘘」をたしなめ、映像によってその「嘘」を暴いてしまうというのは蛇足であるようにも思え、やや道を踏み外していたようにも感じたが、ハリウッド的整合性を保つためにはこのような妥協が必要だったのかもしれない。

イーストウッドの監督作品というのは、しばしプロットに回収できない「異様」なショットが挿入されることがある。ここ数年の作品はそれがますます顕著になっているように感じる。完璧にコントロールされているのではなく、そこからもれ出てしまうものが覆い隠されることなく表出してしまうのである。これこそがイーストウッド作品の魅力であると同時に、ハリウッドのエスタブリッシュメントから冷遇される原因でもあろう。
『J・エドガー』の脚本は教科書的には「混乱」し、余剰をあまりに多く抱えたものであろう。しかし、このような「欠点」こそ、監督イーストウッドの特徴でもあり魅力でもある。ブラックがイーストウッドが監督することを想定してこの脚本を書いたのかはわからないが、この脚本は監督イーストウッドのためにこそ存在したように思える。イーストウッドだからこそ、この余剰をそのまま「混乱」として残せたのではないだろうか。そしてそれは、ある種の「神話」ともとれるものになっているように感じた。
この作品は教科書的には「出来がいい」とはいえないかもしれないが、それだけにかえってまがまがしい魅力を放っている。

もっともディカプリオにとっては、「フーヴァー役でオスカーゲットだぜ!」といきたかったはずで、その狙いからすると残念なものなのだろうけど。眉間の皺がますます深くなりそうです。
欲しがってるのはみんなわかってるんだし、頑張ってもいるんだからそろそろあげたれよ、と思うのですがね。そうするとスコセッシみたいに微妙な作品で取ってしまうことにもなりかねないのですが。





プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR