『ヒューゴの不思議な発明』

『ヒューゴの不思議な発明』




3Dで見てまいりました。ふと考えてみると3D作品ってもしかして『アバター』以来かも。『アバター』は子どもの時に行った「つくば科学万博」の延長的な意味合いでとりあえず見ておこうかなという感じだったのだが、それ以降3D作品に食指が伸びることはなかった。
なんといってもメガネ・オン・メガネというのがなんだか辱めを受けているような気にさせられる……というのは大した理由ではなく、やはり客から小銭を搾り取ろうとしてるとしか思えないような作品が相次いだせいだ。しかしここにきてついにスコセッシ御大が3D作品に乗り出すということでこれは見ておかねばということで。

『月世界旅行』などで名高いジョルジュ・メリエスへの直接的なオマージュをはじめ、リュミエール兄弟など映画草創期のフランスへの愛に溢れた作品となっている。ここらへんは映画的教養がある人ならばもっと楽しめたのでしょうが、それでも特にそういったものを持ち合わせていない僕のような人間でも充分に感動できる。それは『ヒューゴ』が特定の時代や作家のみに捧げられたというよりは、映画そのものへの愛によって作られているからだろう。

「人間が機械の歯車の一部になる」という表現はしばしネガティブな文脈で使われる。しかしヒューゴは作中において、世界を一つの機械に例え、共に親を失っている自分もイザベルも世界にとって欠かすことの出来ない部分なのだと語る。ヒューゴが修理しようとする父の形見となってしまった自動人形だが、この人形が生み出すものに価値があるというよりは、この人形の存在そのものがかけがえのないものなのである。ヒューゴの自分たちの存在を肯定したいという気持ち、そして自動人形を映画に置き換えるなら、病弱で映画だけが友という子ども時代を送ったスコセッシの精神的自伝として見ることもできるかもしれない。無意味な存在などなく、こうして映画に耽溺することしかできなくとも、それもまた世界のかけがえのない部分なのだという。過酷な「現実」の前に敗れ去ったかに思えたメリエスの感動的な復活。これをスコセッシのような、「現実」をえぐり出すような作品を撮ってきた監督が作ってしまうというのもまた感動を深めてくれる。

キャストで注目してしまうのはもちろん(?)クロエ・モレッツなのだが、おいしいところをかっさらっていったのはなんといってもサシャ・バロン・コーエンだろう(サシャ・バロン・コーエンに泣かされるとは!)。
超ドアップのシーンもあったのだけれど、飛び出すサシャ・バロン・コーエンをみんなどんな気持ちで見ていたのだろう。撮影中にボラットかブルーノでも闖入してくるという妄想が膨らんできて大変でもあったのだが。

さて、肝心の3Dの映像ですがこれも素晴らしかった。今の3Dって飛び出すというよりは奥行きがふくらむという感じのほうが強いのだけれど、そこらへんを充分にふまえた絵作りになっていた。時計台というのはうってつけの舞台だったのかもしれない。

「目的がないと壊れてしまう」のは機械に限ったことではない。人間も同じであり、ヒューゴとイザベルは「修理」を行おうとする。あるべき「目的」を失って小手先の3Dで客からカネをむしり取ろうとする今の映画業界への揶揄と批判がこめられている、というのはもちろん強引な解釈だが、そう受け止めることもできてしまう気もした。
仮にそうだとするると、そのような映画業界への一つの解答として、3Dで見る価値が充分にある作品をスコセッシは作り上げてくれたのではないだろうか。


プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR