『正義のアイデア』

アマルティア・セン著 『正義のアイデア』




本書を読んでいてまず感じたのは、やはりセンは「経済学者」なのだということである。これは必ずしも否定的な意味ではない。

本書の出発点となるのはジョン・ロールズの『正議論』である。センはロールズの批判的同伴者と言ってもいいだろう。センはロールズと個人的な交友もあり、尊敬の念も度々しめしているが、それでも『正議論』には根本的な欠点があると考えている。センはそれを「先験的制度尊重主義」と呼ぶ。「「公正としての正義」というジョン・ロールズの有名なアプローチは、唯一の「正義の原理」を導き、それは(社会の基本的構造を構成する)「構成な制度」を作ることだけにもっぱら関わり、人々の行動に関しては、それが制度が適切に機能するための用件に完全に従うことを要求する」。(p.6)

センの考えるこのような欠点は、ロールズに限ったことではなく、ロールズの『正議論』以降活発になった政治哲学全般に見られるものである。ここに政治哲学と経済学との大きな溝があるのだろう。
センは本書で行動経済学の知見に基づいた分析なども行うが、このような発想を哲学の側が受け入れるのは難しいのかもしれない。
『正議論』は賞賛を集めると同時に様々な批判も浴び、ロールズはそれを受け理論を修正している。センにとってこのロールズの変化はより望ましいものになったとなるのだが、例えば日本では井上達夫はロールズのこの変化を厳しく批判している。
『正議論』そのものにしても、『正議論』の批判として発展したリバタリアニズムにしろコミュニタリアニズムにしろ、これらは「思考実験」という色彩が強いと考えた方がいいだろう。本書の議論の多くがこれらからヒントを得ていることからもわかるように、センはこのような営みを無駄で無意味なことだと考えているわけではないが、やはり現実への対処という部分では大きな差が生じる。「私がどんなに哲学に熱中しているとしても、経済学は私の職業であ」るのだ(p.387)。そして「私の職業は、幸福とは困難な関係にあることを認める」ように、現実には唯一無二の完璧な解答など存在しないのである。

索引を見ると一目瞭然だが、本書にはロールズと並んで最も多く言及されるのがアダム・スミスである。センはロールズがなぜスミスを軽視したのかを不思議がっているが、ここでのスミスは古典派経済学の始祖としてのスミスというより、『道徳感情論』の著者としてのスミスである。

しかしスミスを「軽視」するのは政治哲学の側に限ったことではないのかもしれない。
センは経済学部のスミスの購読の授業の際、『国富論』の最も有名な箇所(「我々が食事をできるのは、肉屋や酒屋やパン屋の慈悲心からではなく、彼ら自身の利益からである。我々は、彼らの人間愛にではなく、自己愛に訴えかける」)のみが取り上げられ、「一つの特殊な課題、すなわち、交換(分配や生産ではなく)、特に、交換の背景にある動機(正常な交換を持続可能なものにしている信頼のようなものではなく)だけに議論が集中する」(p.278)ようなことが起こりうることを批判している。「スミスの著作のその他の部分では、人の行動に影響を与えるその他の動機の役割が詳しく論じられているのだが」ということである。
センを「やはり経済学者だ」と言ったのは否定的な意味合いではない。しかしここでセンが示すような例は、いささか戯画化されたうえで蛇蝎のごとく嫌われる、否定的な意味でのいかにも経済学というイメージであろう。

センは本書において、政治哲学と経済学との間を架橋することを試みているといってもいいのだろうが、その鍵となるのはアダム・スミスなのかもしれない。そしてこのスミスは、政治哲学、経済学の双方から不当な無視や恣意的な利用にさらされているのである。
 
「アダム・スミスは二〇〇年以上も前に、理論家の中に、擁護可能な価値のすべてを説明できるような、単純で同質的な徳を追い求める傾向があることに対して不満を述べていた」(p.556)として『道徳感情論』から引用しているが、これはまさにロールズ及びその継承者並びに批判者し対してのセンの不満でもある。同時に戯画化された形で多くの人々にイメージされ、嫌われているところの「いかにも経済学者」というような立場にくみするのでもない。

本書はまた、「ケイパビリティ」や「エージェンシー」というセン独特の概念への丁寧な解説書という面も持っている。
これらについて僕は正確に理解しているとはとても言えず、それどころか今ひとつピンときていない。
ケイパビリティは単に思弁的なものだけではなく、また単に物質的に還元できるものでもない。それだけにまた誤読や単純化も広まってしまっているのだろうし、僕自身そこから逃れられているとは思えず、なかなか消化しきれていないというのが正直なところなのだが。

しかしまた、最終的に行き着くところはシンプルなものなのかもしれない。
最後に展開される公共的討議を通じての民主主義や人権という概念の擁護は、既存の価値観にラディカルな批判を突きつけたり、トリッキーな論の展開というよりは、いたって穏当なものであるという印象を受ける。


経済学はもちろんのこと哲学や倫理というと文献等もやはり西洋中心となってしまいがちである。センは本書で『バカバッド・ギーター』やブッダ、アショーカ王などインドの古事からも多くの事例を引いている。これはセンがインド出身であるからという牽強付会ということではないだろう。紀元前5世紀のインドの政治学者のカウティリヤを、15世紀ののヨーロッパ人にちなんで「インドのマキャベリ」と記述してしまうことの異様さを指摘しているが(p.11)、同じページで言っているように、「インドの優位性」を誇っているのではなく、「西洋の知識人」の非西洋の文献の疎さこそ問題にされるべきであろう。
と、このようにまぁ議論は多岐に渡り、文献も事例も古典から身近な具体的なできごとまでと幅広く、ついていくのもなかなか大変でありましたが。
とにかく正義や倫理をめぐる哲学的議論と同時に現実といかに向き合うかということに興味がある人はぜひ手にとってみるべき本ではないでしょうか。経済学を毛嫌いしている人文学者や、人文学を鼻でせせら笑っている経済学者もね。






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