『愛の続き』

イアン・マキューアン著 『愛の続き』

ちょろちょろとマキューアンを読んでいるが、この作品も素晴らしい。今まで読んだマキューアン作品の中では個人的には一番好きかも。



科学ジャーナリストのジョー・ローズは、草原で英文学者の妻クラリッサからワインのボトルを渡された時叫び声を耳にする。これが「始まり」だった。気球がコントロールを失っている。かごの中には子どもが残され、風に流されていた。周囲にいた数人が駆け寄り、垂れているロープを掴んで気球をつなぎとめようとする。しかし統制のとれていないこの行動は成功しないばかりか、一人の男の命を奪ってしまう。
遺体を前にしたジョーに、同じく救援にあたっていたジェッド・パリーは祈りをささげようと言ってくるが、ジョーはそれを拒否する。その夜、ジェッドから電話がある。「愛している」と。ジョーは黙って電話を切るが……


物語の前半はどことなくパゾリーニの『テオレマ』を連想させた。非日常が日常に侵食し、当たり前の風景が揺らいでいく。『テオレマ』では天使とも悪魔ともつかない人物がブルジョア家庭を崩壊させていく。『愛の続き』においては自らがジョーに愛されているという妄想にとりつかれているジェッドによって日常が崩れていくのだが、ここにあるのは形而上学的な、あるいは神話的なまがまがしさというよりは、グロテスクな滑稽さである。

しかし、次第に物語の語りそのものが揺らいでくるのに気づかされる。
ジェッドは執拗にジョーを追い回す。あるときは自らを神と同一視し、またあるときはジョーを神のように扱う。カーテンの揺れ、生垣、ちょっとした仕草、それらはジョーからのメッセージだとジェッドは受け取る。あらゆる証拠がジョーが自分を愛していることを示しているではないか。
しかしこの状況にジョーの妻のクラリッサは疑念にかられ始める。ジェッドからの手紙の筆跡は、ジョーのそれと似ているのではないか。

ポイントは、この作品はジョーの一人称で書かれているということである。
ジョーはジェイドのその行動から、彼が「ド・クレランボー症候群」だと判断し、危険が迫っていると訴えるが、クラリッサにも警察にも相手にされない。もちろん読者も疑念にかられ始める。この物語自体がジョーの妄想なのではないか?

我々が認識している世界とは、本当にありのままの世界なのだろうか。いくつもの可能性の中から何かを選びとり、何かを抹消していないと確信を持てるのだろうか。
突風に煽られ舞い上がろうとする気球。全員がロープを放さなければ飛び去ることはなかっただろう。しかし一人、また一人とロープから手が離れていき、英雄的な、あるいは一瞬判断が遅れた男が気球と一緒に舞い上がり、転落死する。これは不可抗力だったのか、見殺しにしたのか、それとも積極的に人の命を奪うも同然のことだったのか。
我々が現実だと思っているこの世界が、「真実」から目をそらすために編み出した物語ではないと断言できるのだろうか。ジョーが「真実」を噛み砕いて伝えるのが役割の「科学ジャーナリスト」という設定も絶妙だ。

後半の肌触りはナボコフの『ロリータ』に近い。この男の語る物語はどこまでが真実で、どこまでが妄想なのか。ただ『愛の続き』はさらにそこからさらに一ひねりしてある。『ロリータ』も多義的な解釈が可能であるが、『愛の続き』もまた多義的な解釈を誘う。ハンバート・ハンバートが二人いたとしたら。これはどんでん返しのさらにどんでん返しなのか。「書かれていること」をどこまで信用すればいいのか.。
それを描くマキューアンの筆致はどこまでも巧みで、冷徹なほどに冴え渡っている。


この作品は映画化もされていて、邦題は『Jの悲劇』となっている。なんとマキューアン自身も製作に加わっているのだとか。それにしてもこれをどうやって映像化するんかいなという感じだが、小山太一さんの文庫版の訳者あとがきでは「映画は映画、小説は小説という態度でマキューアンも大いに遊んだのかもしれない」とあって、割り切ったうえで「大人向けサイコ・サスペンス」という仕上がりになっているようである。設定だけでもかなりいじってますね。未見だけれどどんなものなんでしょ。






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佐藤太郎(仮)

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