『ミステリウム』

エリック・マコーマック著 『ミステリウム』




「首都」の地方新聞の見習い記者のような仕事をしている学生のジェイムズ・マックスウェルのもとに電話がかかってくる。面識のあったブレア行政官からであった。ある文書を読み、そのあとでもしよければ、「疫病」や「災害」の噂が立ち封鎖状態にありながらほとんどニュースが伝わってこない町、キャリックで一週間ほど過ごさないかという誘いであった。ブレア行政官の送ってきた文書はキャリックの薬剤師、ロバート・エーケンが書いたものだった。
その文書によると、キャリックに「植民地」から来たとおぼしき「水文学者」のマーティン・カークが現れてから町は不穏な空気に包まれ始める。記念碑が破壊され、図書館の本には薬品がかけられ、殺人が起こり、動物たちが謎の病気で死に出し、それはついには人間にも広がり始める。そしてある人物が逮捕される……


キャラックに「疫病」が広がり封鎖される、という設定からするとカミュの『ペスト』が思い浮かぶかもしれないが、本書の肌触りはカフカ・ミーツ・『藪の中』( 芥川龍之介 )/『羅生門』( 黒沢明 )という感じであろうか。

ラテン語の「ミステリウム」という単語には複数の意味がある、とブレア行政官は「講義」する。古代ギリシア語に由来する「秘密の宗教儀礼」にまつわる、準神学的、準超自然的な意味。そこから転じて神秘劇の演劇的演技。時を同じくして「「ミステリー」はあらゆる商業や工業や芸術にも使われるように」なる。「すべての学者が「マスタリー/ミステリー」と「ミステリー/マスタリー」はそのルーツがあまりにも絡み合っているために、分離することは不可能だと認めている」のである(p.139)。

「あまりにも絡み合っているために、分離することは不可能」とは、まさにこの作品の構造そのもののでもあろう。
マックスウェルは死が目前に迫った町の人々にインタビューを行う。この病気について医務部長はこう語る。「身体の自由がきかなくなる一種の埋め合わせとして(……)犠牲者はほとんどの時間、きわめて顕著な多幸性を示す――至福感のようなものだ。とりわけ男性は、差し迫った死に関心を示すことはめったにない。しかし、死が避けられないものであることは完全に理解しているようだ。(……)ひとことでいえば、この毒は人殺しだが、心優しい人殺しだということだ(p.105)。

この病のために死にゆく町の人々は、言葉を逆からしかしゃべれなくなったり、言葉の間に無意識に罵詈雑言を差し挟んだりしてしまう。マックスウェルはこれらの人々の話をテープレコーダーで録音し、普通に読める文章に書き直すのだが、この作業には違和感もつきまとう。主観的に語られた一人称の話をあたかも客観的であるかのような三人称で語り直すこと、これにどこまで信用をおけばいいのか。そう、町の人の中には自分の話をしているにもかかわらず、自身を三人称でしか語れなくなった人もいるのである。

そもそもこの作品の舞台はどこで時代はいつなのであろうか。彼らの国は「島」で、「北部」と「南部」では政治的、文化的に緊張を抱えているようだ。カークが来た「植民地」とはどこなのか。大きな戦争があり、その過去が町に影を投げかけている。自動車も電気も電話も普及しているが、キャリックはまるで遠い過去に置き去りにされ、独自の進化をとげた町のようですらある。
人々には名前や職業も与えられているが、架空の町の、非時間的な空間のように思える抽象性もたちこめている。具体と抽象、二つの世界の間を漂っているようでもある。どことなく村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終わり」を思わせ、またラース・フォン・トリアーの『ドッグヴィル』のような形で映像化するのがいいのではないかなんて気もしてきてしまった。


薬剤師のロバートの父親はかつてこんなことを言っていたという。「良薬は毒になりうる(……)そして毒は良薬になりうる。おもしろいじゃないか?」(p.52)。
ここからデリダ/プラトンの「パルマケイアー」を連想する人もいるだろう。この作品にはいわゆる現代思想的なものへの目配せとおぼしき部分がいくつもある。
「犯罪理論に関するブレア行政官の講義」で、ブレア行政官は「ロングラック」の「犯罪行為は言語のように構造化されており」(p.215)という言葉を引用する。これなぞまさにラカン風ではないか。一方でこんなことを言う人も出てくる。「私に関する限り、夢は知性のごみにすぎない。夢は知性をゆがめ、めちゃめちゃにしてしまう。夢からなんらかの意味を推察することは不可能だ」(p.95)。

マックスウェルはインタビューを通じて「真実」に少しづつ近づいていく。しかしその「真実」を語る人々は毒を盛られ、病に冒されているのではなかったか。「このキャリックの謎では、ひとつの可能性がべつの可能性に溶け込んでいくのが、なんとも奇妙だと思わないか? まるで上に書かれているテキストをこすり落とすと、その下から別のテキストが現れる中世の手稿みたいじゃないか。たぶんその下にも、そのまた下にも」(p.294)。ここなども、やはりデリダの「パリンプセスト」を思い起こさせる。

同じく「犯罪理論に関するブレア行政官の講義」で、「ドレイミ」の学説が紹介される。「捜査官が犯罪に依存するのと同じくらい、あらゆる犯罪は捜査官に依存する」(p.216)。そして「ドレイミ」はこう説く。「おもしろい解決法を提示せよ! それだけが諸君の義務である。妥当性という考えは放棄せよ! 犯罪に対する解決法の妥当性は重要ではない。まったく重要ではな」い。「一流の理論家自身が、犯罪の真のスターとみなされるべきなのである」。
ブレア行政官は「ドレイミ」の理論に「ある種の美しさ」を認める。それは「不確実性の承認」である。しかし「彼の理論は島の刑務所を空にしてしま」う。ブレア行政官は「講義」をこう締めくくる。「われわれ人類は犯罪者とそうでない人間とのあいだには明確な区別があると信じる必要があると思わないか、ジェイムズ? その保障がなかったら、われわれはどうなってしまうのだろう?」(p.219)。
しかし「良識ある人間の道徳的偏見ほど、捜査の進展を妨げるものはない」(p.98)のであり、「詳細が多すぎると、ものごとはぼやけはじめ、ほかのすべてのと同じように見えるのだ」(p.210)と語るのも、またブレア行政官なのである。
ここらへんは正気と狂気の関係でもあり、「現代思想」と探偵小説がなぜ相性がいいのかということとも関連している。

なにやら非常に思弁的で難解な小説と思われるかもしれないが、この『ミステリウム』が素晴らしいと思えるのは、これを見事エンターテイメントに昇華しているところだ。謎が解けそうになると新たな謎が生まれ、何度ものどんでん返しが用意されている。小難しい理屈をひねらなくてもミステリーとして楽しむこともできる。

「マックスウェル、あまり本をたくさん読み過ぎないように気をつけたまえ。若いころ、私はあまりにたくさんの本を読んでしまった。あわれな読書家よ! われわれはほかの誰よりも早く無邪気さを失うのだ。それからわれわれは美と恐怖を切望するが、それらは実生活では非常に不足しがちなのだ」(p.268)。
むむ、この発言を誰がどのような状況でしたのかを思うと、小難しい理屈をひねろうとしてしまう自分について考えさせられる。「ことばはわれわれを自由にしてくれないのではないかと思う」とこの人物は述べている。

「まことの賢者とは、おのれの無知をしっかり保ちつづけるくらいに賢くなった人々のことだ」(p.310)。
「私がそれを完全に理解するとき、私はようやく見習い期間を終了することになるのだろうか?」
この後に続く言葉が素晴らしく、そしてこの作品の本質を一語で表してくれている。


いやあ、読んでいて、知的(現代思想的文脈)感覚としても身体的(エンターテイメント)感覚としてもわくわくした興奮が止まらない面白い小説でありました。
不勉強にもマコーマックは今まで読んだことがなく、柴田元幸先生の推薦帯に惹かれて手に取ったのですが、こいつは他の作品も読まなければ。






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佐藤太郎(仮)

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