レイ・カーヴァー夫人の回想

Maryann Burk Carver著 What it used to be like   A portrait of my marriage to Raymond Caver





前にどこかの洋書セールで買っていたのをパラパラ読んでみました。

レイモンド・カーヴァーの妻といえば詩人で作家のテス・ギャラガーが浮かぶ人が多いだろう。しかしテスがレイと結婚したのは早すぎた晩年のこと。レイにはその前に約25年連れ添った妻がいた。本書はその元妻のメアリアンの回想録。


1955年、もうすぐ15歳になろとしていたメアリアンはspudnuts(じゃがいも粉で作ったドーナツらしいけど注釈が入れてあるってことはアメリカ人でもあまり知らないのかな)を売る喫茶店でウェイトレスを始め、そこでレイと出会う。レイの母がその店で働いていており、母に会いにきていたのだった。メアリアンは一目でレイに好意を抱き、ほどなく二人は付き合うようになる。

二人は共に読書好きだった。歴史の本について語るレイに、メアリアンは「あなた将来歴史の先生になったら」と言う。するとレイは、思いがけず真剣な面持ちになり、「僕は作家になるんだよ、メアリアン。ヘミングウェイみたいな作家に」と答える。
「私の心臓ははねあがった。今までの人生で一番興奮した言葉だ。声に確信をこめて、私は言った。「レイ、あなたのために何でもする!」目と目が結び合う。これは契約だった」
なんて具合に互いに運命を感じるのでありました。

間もなくメアリアンは妊娠、二人は結婚することになる。レイは19歳、メアリアンは16歳だった。そしてすぐに二人目の子どもも生まれる(避妊せいよ)。カネもなく、子どもを二人抱えた若い夫婦は、それでも夢を追い、レイが大学の創作科に通うために家族でカリフォルニアへと向かう。
レイは製材所や大学図書館などで仕事も行うが、家計を支えたのはメアリアンである。幼い子どもを抱えながら、ウェイトレスや電話のオペレーターの仕事に就く。
「私は大学に行けたらなあ、と思っていた。でも二人の幼い子どもがいて、フルタイムの仕事をしていてはとても無理な話だ。一家の中心であるレイが、まずはきちんとした教育を受けるべきだ。レイにはものすごい才能がある。偉大な作家になることが運命づけられているのだから」


写真を見るとメアリアンは結構な美人で、本人もそれがわかっていたりする。それゆえにいろいろとやっかいごとに巻き込まれたりもするのだが(「奥さん、おたくが苦しいのはわかってますよ。家賃をまけてあげてもいいんですがね。へっへっへ」みたいな大家とか)。
それにしても、もしこんな美人がベタ惚れしてくれて、おまけに稼いできてくれるのなら、僕なら捨てられないように懸命に尽くすところなのだが、まあそういうセコい発想しかできない男にはこういう女の人は寄ってくることはないのでしょうね。

レイは一つ所にじっとしていられない性質で、次々に大学を移っていくが、その様はかなり理不尽なようにも映る。メアリアンがたまの息抜きでバーに行くと子守をしているはずのレイが幼い子どもをほっぽりだして同じ店にやって来たり、ボロっちい服を着たメアリアンがレイを大学まで迎えにいくと、きれいな恰好をした女の子といちゃついていたりとかいうことも。世の中そういうものです。


もともと教師一家の生まれだったメアリアンは、各地を転々としながら、厳しい生活の中大学に通い始める。弁護士になる夢こそ諦めたものの、高校の非常勤教師にまでなる。レイも少しずつ作家として認められるようになってくる。文芸誌の編集を努め、創作科に教師として声がかかるようになる。
皮肉なことだが、ようやく安定を見るかに思われたこのころから、レイの飲酒癖は度を越すようになり、家庭生活は崩壊していく……


この本を読みながら難しいなあと思ったのは、僕を含めて本書を手にした人のほとんどがレイモンド・カーヴァーに興味があってのことだということだろう。ここに描かれる夫レイの姿は、彼の伝記になじんでいる人からするとそう目新しいものはなく、またメアリアンの家族の話(特に妹)とかは、「そこは別にいいんですけど」、みたいな反応をしてしまうかもしれない。
本書はあくまでメアリアンから見ての夫婦生活の回想録なのだが、その距離感というのも難しい。オノ・ヨーコの前にジョン・レノンの妻だったシンシアも回想録を書いているが、別れた妻が元夫との過去を振り返るというのはどういう心境なのだろうか。メアリアンにしろシンシアにしろ、後から妻になった人が個性的な分、「本当にあの人をわかっていたのは私のほう」という自負みたいなものもかえって沸いてくるのかもしれない。しかし夫婦がうまくいっていたのなら別れていないわけで、かといって恨み節にもしたくないというのもなかなか大変なことかもしれない。

本書でも、レイの浮気だったり、ついには手をあげたりだとか、結構きつい場面もある一方で、夫婦の間の微妙な機微というか、内面なんかにはもう一つ踏み込んでいないような気もしなくもない。あえて抑制をきかせたということかもしれないが、その割には軽い文体のようなところもあり、全体の構成なんかにやや一貫性がないようにも思えてしまう。
謝辞を読むと、1250ページも書いた原稿を編集したものが本書のようなので(わざわざこういうことわり方をしているということは、普通の著者と編集者とのやり取りとは異なる経緯なのだろうか)、いささかバランスが悪いように映るのはそこらへんに起因しているのかもしれない。

その一例が、作家レイモンド・カーヴァーを語るうえで問題になるゴードン・リッシュとの関係の部分である。
ある時期、レイの原稿にリッシュが手を入れていたが、これが編集者としての行為なのか事実上の共作者だったのかは議論がある。本書の記述を読むと、メアリアンはリッシュが原稿に過剰に手を入れたり、あげくはタイトルの変更まで行うことに気分を害して反対している。ただリッシュと出会う前までは、メアリアンは出来上がった作品を読んではいるようだが作品の中身についてレイと話し合ったというような部分はない。それがリッシュがでてきた途端に作品について踏み込んだ会話を交わすというのはどうも腑に落ちない。その前にあった同様の行為の部分は編集で落とされてしまったのか、あるいはリッシュからレイを守ろうという記憶の改変が行われたのだろうか。


そんな感じで伝記として考えると少々いびつな印象はあるものの、また違った楽しみ方をすることもできる。
レイとのデートでドライブ・イン・シアターに行くと、そこでは「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が流れていて、二人は気にいる。周りにいた客がこの音楽はロックン・ロールというんだよ、と教えてくれたなんてところは田舎町におけるリアル『アメリカン・グラフィティ』という感じもする。

またメアリアンはケネディに夢中になる。
「彼はわくわくさせてくれる候補だ。アイゼンハワーの長い8年にも及ぶ政権下で育ってきた、私たちみたいな骨の髄からの民主党員にとっては、新鮮な空気が必要なのだ」

そしてケネディだけではなく、ジャクリーンにも。
「レイはこれから偉大なアメリカの作家になる。私は彼を助けていかなくては。ジャッキーがファースト・レディとしての彼女の第一の責任は夫と子どもを気遣うことだとしているように、私はレイをはげまして支え続けないと」

この言葉の通り身を粉にして働く。しかし60年代末ごろになるとメアリアンの感覚は少し変化してくる。
「私は自分個人の権利というものを意識するようになっていった。いつもいつもレイとメアリアンの夫婦の片一方なのではない」

もちろん本書は日記ではなく回想なので、当時ほんとうにこの通りの意識の変化があったのかは割り引いて受け取る必要があるが、50年代に育った若すぎた夫婦が60年代を過ごす中での変化というのは感じられる。

ケネディというのはやはりこの時代に生きていた人にしかわからない特別な感覚を呼ぶ存在なのだろう。撃たれた時をこう振り返っている。
「「ああ、なんということか。私たちの大統領が。私たちの!」レイと私は声をそろえた。希望にすがりつき、凍りついたようにテレビの前にいた。ニュースキャスターが悲痛な調子で、「大統領が亡くなりました」と言うまで」

こういう文化史的というか精神史的な部分なんかもまあまあ面白く読めました。


本書の翻訳が出るのは厳しいかもしれないけど、レイの伝記といったらRaymond Carver  A Writer’s Lifeがあるけど(感想はここ)、こっちは出してくれないと。






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佐藤太郎(仮)

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