サリンジャーの戦争

Kenneth Slawenski 著   J.D. Salinger  A Life






サリンジャーの伝記であるが、本書の著者は伝記作家でも文学研究家でもない。Dead Caulfieldsというサイトを運営する「アマチュア」(当人の弁)なのである。とはいえ執筆に8年もの時間をかけたにふさわしい本格的な伝記となっている。

サリンジャーといえば謎めいた作家というイメージを持っている人も多いだろう。その「謎」とは、一般的には60年前後あたりからの隠遁生活が浮かぶかもしれない。しかしこれ以降の生活というのは、娘であるマーガレットと一時生活を共にしたジョイス・メイナードの回想(『我が父サリンジャー』『ライ麦畑の迷路を抜けて』)によってかなりイメージすることができる。それはサリンジャーを神格化したがる人が期待するような、宗教的ともいえる高潔な生活というものからはいささか遠かったといわざるを得ないだろう。

前に「敗れ去ったサリンジャー」というのを書いた。
ある時期以降のサリンジャーが書けなくなったのか、書かなくなったのか、書いてはいても発表しないのか、できなくなったのかについては様々な憶測がなされた。いずれにせよ、サリンジャーは亡くなる前にすでに作家として「敗れ去っていた」のではないか、というのがその趣旨であった。

サリンジャーは第二次大戦でノルマンディ上陸作戦を含むヨーロッパ戦線に従軍した。そこで彼は人生を根本から変える「何か」に出会った。
『ナイン・ストーリーズ』収録の、自伝的要素の色濃い「エズメに捧ぐ」はどんな作品だったか。
X軍曹は戦線に出る前に訓練のために滞在していたイギリスである姉弟と出会う。その後Xは戦闘に参加し、「何か」を体験する。この短編の最後は、その「何か」によって精神に深い傷を負ったXに、イノセンスを象徴するような姉弟からの手紙によって救済の可能性が示される。
あるいは「バナナフィッシュにうってつけの日」はどうか。
グラース家の長兄シーモアが登場する「グラース・サーガ」の第一歩にして最重要作であるが、この短編のみを取り出すのなら、戦争によって精神を病んだ(と周囲からは見られている)退役軍人が不可解な自殺を遂げる物語なのである。
これらの話では過酷な体験が示唆されるが、そこで何があったのか、具体的に書かれることはない。

この「何か」は人間サリンジャーにとって極めて重要な出来事であったのだが、作家サリンジャーはその「何か」を作品にすることができなかったのではないか。
「語り手」であるグラース家の次兄バディに自らを重ねようとしたはずのサリンジャーは、最終的には「聖人」と化したシーモアに自己同一化し、作家として行き詰ったのではないか。その原因とは「何か」を書くことができなかったことにあったのではないだろうか。


サリンジャーの謎、それは隠遁生活などにではなく、彼の戦争体験にある。
この伝記を手に取ったのは、その戦争体験への可能な限りの調査がなされているようであるからである。


まずサリンジャーの生い立ちを簡単に見ておこう。
1919年、ハムなどの食品の輸入・販売を行う裕福なユダヤ人(ただし世俗的)の家に生まれる。
早くから演劇や詩に興味を抱く。学校生活では後に『ライ麦畑でつかまえて』に活かされるような体験こそいくつかあったものの、ドロップ・アウトしたホールデンとは異なり、ミリタリー・アカデミーを卒業している。
作家を目指す息子に対し父は家業の後を継ぐことを望み、いくらかの軋轢があった。輸入業に興味を示してくれるようにということでのヨーロッパ生活を体験したりしながら、大学の創作コースに通う。ユージーン・オニールの娘との恋の鞘当などもありつつ(彼女はチャップリンと結婚してしまう)、作品を少しずつ文芸誌に発表していく。その中には「ホールデン・モリッシー・コールフィールド」の登場する物語もある。


真珠湾攻撃に「怒りと愛国心」を掻き立てられたサリンジャーは軍務につくことを志願し、44年にはイギリスに派遣され、諜報担当兵としての訓練を重ねる。ここでスラプトン・サンズで上陸訓練で749人もの犠牲者を出してしまう事故に立ち合ったりもしている。

そしてついに「サリンジャーの人生のターニングポイントとなる」、1944年6月6日を迎えることになる。

5章はその名もずばり、「Hell」という章題が与えられており、本書で最も紙数が割かれている章でもある。
サリンジャーはノルマンディ上陸作戦、及びこれ以後11ヶ月に渡る戦争について直接的には作品として書き残してはいない。サリンジャーはしばしノルマンディ上陸作戦について口にした。しかしその詳細について語ることはなかった。「まるで、語らないことが何を意味するか、私がわかっているみたいに」とマーガレットは振り返っている。
したがって著者は、サリンジャーの書簡とその他の資料からサリンジャーの戦争体験を再現していく。

サリンジャーの所属した連隊はオマハ・ビーチからの上陸を目指した。
サリンジャーは「ナイーヴ」な兵士ではなかった。すでに執筆していた作品中で、軍では間違った理想主義が戦闘に適応され、むかつくような結果を招くということを書いていた。「戦争とは血塗られた、栄光とは無縁の出来事なのだ」。
それでも、その光景は想像を絶するものだった。

上陸作戦から6日後の6月12日、サリンジャーは短い手紙を書き送っているが、殴り書きされた判読の難しい手書きの文字は、時間に追われているのと同時に彼の被ったトラウマ体験も想像させるものとなっているという。
6月6日の上陸作戦時に連隊は3080人いたが、7月1日の時点で残っていたのは1130人。これはヨーロッパ戦線で最悪レベルの損耗率だった。
そのような中、サリンジャーは諜報担当兵として捕虜や地元民の尋問作業をこなしていく。

そしてついにパリは解放される。すでに市内にまで進軍していたサリンジャーは、最初にパリに入城したアメリカ軍の一人でもあった。
サリンジャーはその喜びを書き残しているが、一方でドイツへの協力者へのリンチも始まる。群集が男を取り囲んで暴行し、死にいたらしめるが、彼はただ傍観するだけだった。「1944年の夏、サリンジャー軍曹は死に慣れ始め、無感覚になっていた」。

サリンジャーはパリでヘミングウェイとの面会を果たす。主に文学について話し、ヘミングウェイが恐れていたようなわざとらしい過剰なマッチョなどではなくほっとする。「ほんとうにいい人だったよ」という手紙を送っている。
従軍しながらもサリンジャーは執筆を続け、まさに今味わった戦争体験から着想を得た作品を書いている。その中には43年に「長編に仕立てる価値があると思う」と語っていた「コールフィールド」ものも含まれている。

その中の一つが「マヨネーズぬきのサンドウィッチ」である。この作品ではヴィンセント・コールフィールド軍曹がジョージアのブートキャンプで弟のホールデン(!)が太平洋での作戦中に行方不明になったとの知らせをうけて動揺するという物語である。
後の『ライ麦畑でつかまえて』ではこのような戦争のイメージが取り払われていることに注目できる。
なおこの頃の短編はサリンジャーは本国では単行本化されていないが、日本では荒地出版から出ていた「サリンジャー選集」で読むことができる。家のどこかに眠っているので、そのうちに引っ張り出して読み返してみようと思うのだけれど、この版権ってどうなってんのというのがいつも疑問なのだが。


パリをすぐに後にしたサリンジャーらは、今度も激戦となった「ヒュルトゲンの森の戦い」に参加する。見えない敵に囲まれ、いつ撃たれてもおかしくない状況の中、死体を乗り越えて前進していく。「ヒュルトゲンは、サリンジャーを深く変えることになった」。

ある夜、サリンジャーはイギリスでの訓練中から友人だった同じ連隊の通訳に「おい、ヘミングウェイに会いにいこう」と誘われる。数マイル後ろには、ヘミンフウェイが従軍記者として同行していた部隊がいたのだった。再会をはたした彼らは、数時間の間文学談義に花を咲かせた。
ヘミングウェイはヒュルトゲンの森での経験について、「書けるようになるまで何年もの時間を要した」のだが、「生存者の多くは、ヒュルトゲンの森について二度と口にすることはなかった」。

この状況下でもサリンジャーは執筆を続ける。「ストーリー」誌に短編が売れたために、ここから短い「ホールデン調」の滑稽なプロフィールを書いて送っている。「ヒュルトゲンにおいてさえ、サリンジャーは読者にこう請合った。「時間さえあればずっと書いている」。そしていつでも「誰もいないタコツボ」を見つけられる」のだと。

ヒュルトゲンの森を抜けた時、連隊にもともといた3080人は563人にまで減っていた。「兵士にとって、森から生き出られただけで、さらに歩くこともできたのだとしたら、それだけで勝利だったのである」。

さらにこれもまた激戦となった「バルジの戦い」にも参加することになる。「サリンジャーや仲間にとって、これはヒュルトゲンの森の戦いの延長のようなものだった。何夜も雪の上で野営しなければならなかった」。

このような激戦の数々をくぐりぬけ、季節は春を迎える。しかしこれはまた別の恐怖をもたらすものだった。雪が溶けて地面はぬかるみ、ジープが使えないので歩いて行軍する。そして「溶けた雪の中から無数のアメリカ軍兵士の死体が現れ始めた。懇願するように氷ついた手を空へとむけた死体が横たわっていた」。

サリンジャーはなんとか生き抜く。状況は好転し始めているように思えた。しかし「サリンジャーには想像もつかなかっただろう。本当の地獄がまだやって来てはいないということが。彼は今、そのとば口に立っているのだということが」。


4月末、サリンジャーらの連隊はダッハウ近くへと迫っていた。ある目撃者の証言によれば、10マイル離れていても「臭って」いた。
4月22日、ダッハウ強制収容所とその関連施設の集中する地域にまで進む。23日、アーレンとエルヴァンゲンへ。これはダッハウの「補助収容所(subcamp)」であった。26日にはホルゴーへ。ここにも補助収容所が。27日にはレヒ川の土手から二つの補助収容所が確認できた。
4月30日、ヒトラーが自殺をする。サリンジャーらはその頃、発見したものに「困惑」を覚えて始めていた。「戦争において、最悪の光景はすでに目にしてきたと思っていたが、部隊は不意打ちをくらわされた。連隊からの日々の報告は信じがたいものだった。徐々に悟ってきたのは、彼らが解放していたのは、通常の戦争捕虜ではなかったのである」。

サリンジャーと同じような体験をした兵士の日記が引用されている。
「門が開くと、まず囚人たちに目がいった。多くがユダヤ人だった。黒と白の縞の囚人服を着て、丸帽子をかぶっていた。何人かはボロボロの毛布の切れ端を肩にかけていた。(……)開いた門の方に何とか向かおうとしていた。弱々しく、足を引きずって。まるで骸骨だ。みんな骨と皮だけだった」

1992年にサリンジャーのいた連隊がダッハウ収容所に連なる7つの補助収容所を解放していたことが確認されたという。サリンジャーはこの体験を決して口にしなかったので、彼が実際に何を目にし、諜報担当兵としてどのような行動をとったのかはわからない。
サリンジャーにとっての「何か」、それは強制収容所だったのだろうか。


5月にヨーロッパでの戦争は終わる。サリンジャーは13日に、陰鬱な手紙をを書いている。くぐりぬけてきた戦争の恐怖と、顔見知りだった亡くなった兵士たちの姿が離れない。生き残ったのは奇跡的なことだったのだろうが、その罪悪感がとりつく。そして6月には入院することになる。今でいえばPTSDなのだが、当時はもちろんこのような診断がくだされることはなかった。


この章の締めくくりに、著者はサリンジャーは他の帰還兵と違ってこのような体験を乗り越え、書く力を取り戻したとしている。書くことを通して、生や死や神について、人間とはいかなるものかについての考察をし、答えを探し求めた、と。
個人的には、これは一面では正しくもあるのだろうが、全面的には同意できないところでもある。すでに述べたように、作家サリンジャーはやはり「何か」と正面から向き合うことはできなかったのではないか。


というところで大分長くなってしまったので「サリンジャーの結婚」に続く。






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佐藤太郎(仮)

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