サリンジャーの結婚

Kenneth Slawenski 著  J.D. Salinger A Life




サリンジャーの戦争」の続き。

続く6章もなかなか興味深い。
サリンジャーは退院後も帰国せずにドイツに残る。そればかりか、シルヴィアという女性と結婚したという手紙を送りつけて家族を仰天させる。
このシルヴィアという女性はかなり謎に包まれていたのだが、本書ではその「正体」についても調査がなされている。

昔に書かれたものでは、シルヴィアをフランス人だとするものもあればドイツ人だとするものもあり、混乱があった。
シルヴィアは1919年(サリンジャーと同年)生まれのドイツ人。45年当時、アメリカ兵はドイツ人と結婚することができなかったため、サリンジャーはシルヴィアのためにフランスのパスポートを手に入れ、偽の市民権も獲得している。
サリンジャーはふざけて彼女を「整骨医」などとしていたが、実際には四ヶ国語に堪能な眼科医であった(学位論文はフランクフルトの国立図書館で読めるそうだ)。

46年4月、サリンジャーはシルヴィアを連れてようやく帰国するが、この結婚生活は長く続かず、間もなく彼女はヨーロッパに戻る(ドイツで飼い始めた犬はそのまま残る)。サリンジャー家の人々にとって、彼女の存在はすぐに忘れ去られることになる。

シルヴィアのその後についても触れられている。シルヴィアは56年にアメリカへ再びやって来て、成功したエンジニアと結婚する。緑内障の研究を続け、88年に夫が死去すると、残りの人生をお年寄りのために捧げ、2007年に働いていた施設で亡くなる。彼女の遺品には「フランスのパスポート」があり、そこにはサリンジャーやジョイス・メイナードの記事のスクラップもあったのだという。

ここらへんの話というのはこの本で始めて知った。ここ数年はサリンジャーについて積極的に情報を漁るということはしてなかったのだが、ファンにとっては常識だったのだろうか。シルヴィアが2007年まで生きていた(それもアメリカで)というのは結構な衝撃だったのですが。

昔に書かれたものではシルヴィアは正体不明の謎の女とされていることが多く、サリンジャーが入院していた病院の精神科医かもしれないとしていたものもあったように記憶している。離婚後は「消息不明」扱いで、そのせいもあってどこか不気味な印象というのを与える存在だったのだが、こんな人生を送っていたとは。


で、この伝記を読み終えての感想。
アメリカのアマゾンでの本書へのレヴューを見ると、酷評したものがいくつか見られる。
その理由の一つが「知っていることばかりじゃん」というものだ。サリンジャーのような熱狂的ファンが多い人物の伝記を書くと、こういう反応があるのはやむをえないのでしょうね。著者からしたら「じゃあお前が書いてみろよ」というところかもしれませんが。

一方で、本書はかなり綿密な調査がなされているにも関わらず不自然に言及されていない出来事なんかもある。すぐに気がつくのが、隠遁後に一時生活を共にしたジョイス・メイナードについてである。彼女は回想録も書いており、これは一級の資料になるはずなのだが、ほぼ黙殺している。メイナードについてはなんと1ページに満たないほどの言及しかないのである。彼女が回想録執筆後にサリンジャーの手紙を競売に出したことを苦々しく書いているところに、伝記作家というよりもファンとしての複雑な思いというものが垣間見える。

熱心なファンかあすれば「知っていることばかり」なのかもしれないが、サリンジャー・マニアとまではいかない僕にはへぇっと思う情報がいくつもあった。最大のものはサリンジャーの最初の結婚相手のシルヴィアについてであることはすでに触れた。その他にいくつかざっと書いてみる。

55年にサリンジャーはクレアと二度目の結婚をするのだが、その結婚式にはクレアの前夫も出席していたのだとか。離婚後も子どもたちのこともあり、向かいの家(離婚時の財産分与で譲渡された)に住み続けていたが、80年代には心理学で博士号を取り、カルフォルニアへ渡って成功し、何冊か本も書いて教鞭も取っているのだとか。クレアはサリンジャーとの結婚生活について語ることはないそうだが、著者からするとこういうところをメイナードと比較してしまうのだろう。

サリンジャーもケネディの暗殺には衝撃を受けたようだ。サリンジャーはケネディのホワイトハウスから招待されていたもののこれを受けなかった。この時、間にはいって交渉していたのはあのゴードン・リッシュ。この数年後にリッシュはレイモンド・カーヴァーと深い関わりを始めるのだが、リッシュとカーヴァーとの間でサリンジャーについて会話が交わされたことはあったのだろうか。
またサリンジャーは息子のマシューを名門寄宿舎に入れることになるのだが、ここでケネディ・ジュニア(ジョン・ジョンのことだよね)とクラスメイトになったそうな。

同じ東洋神秘主義という趣味を持ちながらも、サリンジャーはビートニクに否定的だったが、ちょっとした偶然があればコロンビア大学でケルアック(1922年生まれ)と机を並べることになっていたかもしれなかった。確かに二人は同年代なんだな。


アマゾンでの不評の原因その二が、「いちいち小説の要約を入れるんじゃねーよ」というものである。
サリンジャーには単行本化していない短編が多くあるので、そういうものの内容を多く紹介するのはいいにしても、有名どころまでいちいちあらすじなどを書くのは確かにどうなのよ、という気がしなくもなかった。また伝記なんだからあんたの作品論は別にやってくれよ、というのもあるだろう。
ただご覧の通り、僕も一度書き始めるとダラダラと長くなってしまうたちなもので、アレも入れとかなきゃ、コレも入れとかなきゃ、という著者の心理というのはわかなくもないのでやや同情的。とはいえ、個人的には著者の作品読解には同意できないところもいくつかあった。
著者はサリンジャーの伝記的事実と作品とをわりと「素朴」に結び付けている部分が多いのだが、同時にやや恣意的に思えるところもある。


すでに書いたように、サリンジャーは戦争にまつわる「何か」を書くことができなかった、それがサリンジャーが書き続けることができなくなった原因なのではないか、というのが僕の個人的なサリンジャーの読み方である。これについて考えるには、グラース・サーガを取り上げるのが一番いいだろう。

「バナナフィッシュ」は当時のサリンジャーの精神状態が反映したものであることは間違いない。つまりスタート時から、シーモアはサリンジャーの分身である要素が濃いことは多くの人が同意することだろう。
また本書でも指摘されているように、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」で言及されるシーモアの軍歴がサリンジャーのそれと重なる部分も多い。ではシーモア=サリンジャーという単純な解釈でいいのだろうか。
鍵となるのがバディの存在ではないか。グラース・サーガは、グラース家の次兄であるバディが書き紡いでいるという設定でも読めるようにもなっている。サリンジャーはなぜバディという「語り手」を導入したのだろうか。

本書は軽く済まされているが、バディというキャラクターの造形は作品執筆時のサリンジャーと重なる部分が多い。つまり、単にシーモアの聖人伝を書くというハギオグラファーとして片付けることはできないのではないか。
『ナイン・ストーリーズ』収録の「テディ」は、サリンジャー「最後」の作品となった「ハプワース16、一九二四」でのシーモアを連想させるような超人的な子どもが主人公となっている。この時点で、作家サリンジャーは自身の内に潜む危うさというものを感じとっていたのかもしれない。グラース家の人物それぞれにサリンジャーは自己を投影しているが、なかでもシーモアは特別な存在である。しかしこのシーモアにのめりこむことの危うさを、「テディ」の執筆を通して感じたのではないだろうか。そこでバディというさらなるアルター・エゴを召還することによって、この危うさを乗り越えようとしたのかもしれない。バディが自殺したシーモアの生涯を追い、残されたグラース家の人々の姿を描くという形なら、サリンジャー/シーモアが体験した「何か」を書くことも可能になるのではないか。しかし結果は、バディはシーモアのハギオグラファーに堕してしまい、現実からすっかり遊離したような「ハプワース」はサリンジャーの「最後」の作品となってしまうのである。

本書には『フラニーとゾーイー』が単行本化された際の、ジョン・アップダイクによる「サリンジャーは、神が愛するよりもグラース家を愛してしまっている」(「大工よ」からのパロディ」という書評が引用されている。著者はアップダイクがいくつかの「誤読」をしているとして、この書評に不満のようだが、僕はアップダイクと同意見である。このような危うさを抱えているからこそ、バディという語り手を導入し、それを打破しようとしたにも関わらず、サリンジャーはグラース家を、もっといえばシーモアを愛し過ぎてしまい、作家として行き詰ったのではないだろうか。

前にも『ライ麦畑』の「語り手」の問題についてちらっと書いたが(ここ)、サリンジャー作品における語り手の役割をどう考えるかというのはかなり重要なのではないか。「主人公」とは別に語り手がいるという構造は、サリンジャーが尊敬していたフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を連想せずにはいられないし、ここらへんにもサリンジャー作品読解の手がかりの一つがあるように思える。著者はこれらをやや軽視しているむきがあるように感じてしまった。


……という感じに脱線して長くなってしまうので、やはり本書の評価をめぐっての著者への批判にはつい同情してしまうところもあるのです。


本書がサリンジャーの伝記として「決定版」とまでいえるのかはやや躊躇を覚えてしまうところもある。とはいえ、とりわけサリンジャーの戦争体験についての章は非常に鮮烈であるし、その他についても広範に調査がなされている。
若かりし日に『ライ麦畑』を読んで、『ナイン・ストーリーズ』や『フラニーとゾーイー』をパラパラやって、「若者の繊細な心情をリアルで活き活きとした筆致で描いた」程度の認識でわかったような気になっていた人には、とりあえず5章だけでもぜひ読んでもらいたい。




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佐藤太郎(仮)

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