『LAヴァイス』

トマス・ピンチョン著 『LAヴァイス』




ピンチョン作品は大まかに二つの系譜に分けられるのかもしれない。『V.』や『重力の虹』のような「世界史」的なもの。そして『競売ナンバー49の叫び』や『ヴァインランド』のような「アメリカ史」的なものとに。もちろんこれは「あえて」そう言えばの話で、これらの作品を通過した後の『メイスン&ディクスン』や『逆光』に顕著なように、両者は溶け合っている。

それでもあえてこの二分類を使うと、『LAヴァイス』は「アメリカ史」の系譜に連なる作品である。
カリフォルニアが舞台であり謎の富豪が登場するとなれば『競売ナンバー49の叫び』を連想してしまうが、肌触りとして最も近いのは『ヴァインランド』である。ピンチョン自身もそのことを充分に意識しており、「ヴァインランド郡」への言及があるばかりか両作にまたがる登場人物もいる(ここらへんはピンチョンお得意のファンサービスでもある)。
そして『LAヴァイス』の「現在」は1970年前後。これは「現在」が1984年であり、60年代後半の出来事がカギを握る『ヴァインランド』の間に立つ形になる。


いつもラリっている私立探偵ドックのもとに、かつてのヒッピースタイル改め、「あんなふうには絶対ならない」はずだったお堅いファッションに身を包んだ元恋人シャスタが現れる。彼女はユダヤ人にしてナチに憧れているとも言われる建設業界の大物ウルフマンの愛人になっていた。シャスタはウルフマンの妻から夫を精神病院に入れてしまおうという誘いを受けていたのだった。
ヤクの副作用か失神癖のあるドックはある場所で意識を失う。そこで起こっていた殺人事件。ウルフマンは行方不明となりシャスタも姿を消す。
二人を追ううちに突き当たる、あまりにいわくありすぎる船、<黄金の牙>。絡み合う謎にいくつもの罠がドックを待ち受けている……


いかにもハードボイルドめいた始まりである。しかし「なんつっても私立探偵は消えゆく種族」(p.136)であるこの世界では、チャンドラー的であると同時にフィリップ・K・ディック風味でもある。同時にハードボイルドものの硬質な陰気さともディック的現実溶解感覚とも異なる、やはりピンチョン独特の世界が築かれている。

この作品全体を流れている「通奏低音」というものがあるなら、それはロサンジェルスのワッツ地区での「暴動」であり(「白人の復讐は続く、ってな。(中略)」/「復讐……って?」/「ワッツのだよ」/「暴動か」/「<反乱>って呼んでくれ。白人どもはここぞってタイミングを見計らっているんだ」p.32 ピンチョン唯一の「ルポ・エッセイ」は「反乱」から一年後のワッツを取材したものである。A Journey into the Mind of Watts)、そしてシャロン・テート殺害事件であろう(「チャーリー・マンソンとお仲間たちが何もかも台無しにしてくれた」p.59)。

この作品の中で、「警官」や人種差別主義者たちはワッツの再来やマンソン事件の再発を恐れている(「三人以上の市民が集まってる場合は潜在的なカルト集団と見なす」p.244という<カルトウォッチ>!)。そしてこの二つの出来事は、警官たちと対峙するヒッピーたちの側にも大きくのしかかる。白人による抑圧的支配に対し立ち上がったのは、世界を変えるための第一歩だったのかもしれない。一方で、ヒッピー・カルチャーとも深く関わりを持つマンソン事件は、まさに60年代の理想主義と楽観主義の終わりを告げるものであった。

『ヴァインランド』ではすでに敗退したかつてのヒッピーたちに「ファシスト」が牙をむく。その過程でプレイリーは過激派だった母親にまつわる60年代後半の出来事を知ることになる。
『LAヴァイス』では、ヒッピーたちはまさに今、後退戦を強いられ、出口もないままに散り散りになろうとしている。罠、裏切り、疑念。どこまでが陰謀で、どこからがパラノイア的妄想なのか。

『LAヴァイス』の原題は Inherent Vice
「海上保険に関わっているソンチョの同僚は、よく「内在する欠陥(インヒアレント・ヴァイス)」という言葉を使う」。

「原罪みたいなものか?」とドックが聞いた。
「どうしても避けられないこと」ソンチョは応えた。「海上保険会社が契約でカバーしたがらないことね。ふつうは積荷が対象だけど――割れる卵とか――船自体が対象になることもある。船底から水を汲み出さなくちゃならないとしたら、その船には内在する欠陥がある」
「サンアンドレアス断層もか」ドックが思い当たったのは、カリフォルニアの地震源。「ヤシの木の上に住むネズミも同じだよな」
「そうだな」ソンチョは目を瞬く。「LAを、厳密な理由によって船に見立てて、その海上保険を書くとしたら、そういうことになる」
「おい、ノアの方舟はどうなんだ。あれも船舶だろ?」
「方舟保険?」
「ソルティレージュがいつも話してたろ。大昔の天変地異でレムリア大陸が太平洋に沈んだとき、ここまで難を逃れてきた人がいるわけだから、カルフォルニアも一種の方舟だとは言えないかい」
「ああ、避難場所としちゃ結構だよね。快適で安定した、頼りになる不動産だ
」(pp.478-479)


ピンチョンはなぜカリフォルニアを描くのだろうか。
本作にはビーチ・ボーイズの「素敵じゃないか」が出てくる(僕が個人的に一番好きなビーチ・ボーイズの歌だったりする)。美しいポップ・ソングを作り出すブライアン・ウィルソンは、抑圧的な父親に悩まされ、バンドのメンバーとの軋轢が生じ、レコード会社からの理解が得られず、崩壊寸前の精神状態で『ペット・サウンズ』を作り上げる。現在ではロック・ポップス史に残る大傑作とされる『ペット・サウンズ』は、発売時には本国アメリカでは不当な扱いを受けた。あまりに美しい音楽の裏に、陰鬱な物語が潜んでいる。

カリフォルニア。輝く太陽、青い海、小麦色の肌をしたビキニの女の子。スチューデント・パワー揺籃の地にしてサマー・オブ・ラヴの中心地。そしてニクソンとレーガンを輩出する土地(作品の「現在」はニクソン政権下であり、カリフォルニア州知事はレーガンである。「あの知事は今、大変な勢いだな。将来のアメリカはあの人が天下を取ることになるんだろう」p.438 また赤狩りも本作の重要なモチーフになっている。ニクソンもレーガンも赤狩りで「活躍」をした)。フロンティア、ゴールド・ラッシュ。マニフェスト・デスティニーという言葉の元で何が行われたのか。メキシコから戦争で分捕った場所、カリフォルニア。

「ヘイ……でも、あんた、建国の父ならさ、もうビックリでしょ、黒人が武装蜂起なんて話」
「自由の樹は、ときおり愛国者と圧制者の血で洗われなければならない」ジェファーソンは言った。「それが天然の肥となる」
(p.401)

独立宣言の起草者にして奴隷所有者のジェファーソン。
LAを一艘の船に例えられるのなら、カリフォルニアをアメリカに例えることもできる。
理想と希望に燃える若き国。奴隷制度によって発展し、人種差別を秩序維持に利用しようとする国。どちらが真実のアメリカなのか。両者は分かちがたく結びついている。「どうすれば踊りと踊り手を区別できようか?」(イェイツの「学童たちのあいだで」)。

イェイツをもじれば、網の目を構成する人間と網の目に捉われた人間を区別できようか。
60年代の理想主義は過去のものになっている。ヒッピーたちはカネをもらいスパイとなり、過激派にはスパイが溢れ内部対立を煽られる。カネをもらってスパイになることを嫌うドックであるが、「警察で働きたくない警官なわけ。本当は警察と同じことをしているのに、サーフィンだ、スモーキンだ、ファッキンだ、ってそれ以外のことがしたいみたいなフリをおしている」(p.427)という言葉に反論できるのだろうか。

「ARPAネットだ!」(p.79)。インターネットの起源とされるこのネットワークがスタートしたのは69年のこと。すでにこの時点で知る人ぞ知る存在になってたのだろうか。ドックは「ダッシュボード・コンピュータも実現するかもしれない」(p.502)という想像をめぐらす。このエピソードはちょっとした彩などではなく、作品のテーマにも関わっているのかもしれない。
スティーブ・ジョブズなどがカリフォルニアのヒッピー・カルチャーから大きく影響を受けたことはよく言われる。国や大企業がコンピューターを独占するのではなく、個人がコンピューターを持つことによって人々は解放されるのではないか。しかしインターネットは「政府の金」によってそのシステムが構築され、そして現在では、過去に例を見ないほど私企業が個人情報を蓄積し、公権力がそれを追跡可能な世界となっている。コンピューターの利便性を否定できる人はいないだろう。ではそれによって我々はより自由になれたのだろうか。
網の目に一度見入られると、もう出口はないのか。

『ヴァインランド』のエンディングはいくつかの解釈が可能だが、多くはそこに希望の芽を見出すことだろう。では『LAヴァイス』では?
霧が立ち込めた世界が、「ゆっくり失われていく」のを眺めることしかできないのだろうか。霧が晴れるのかどうかはわからない。それでも、走り続ける先に何が待っているのかはわからなくとも、アクセルを踏み込むことはできる。「ゴッド・オンリー・ノウズ」を口ずさみながら。
本書のエピグラフは「鋪道の敷石の下はビーチ!」という1968年5月のパリの落書きから。これは皮肉などではないのだろう。



どうしても『ヴァインランド』との読み比べをしてしまいたくなってしまうのですが、続編やスピンオフというわけではないので『ヴァインランド』を読んでいなくとも楽しめます。
それにこう書いているとなんだかすごく陰鬱な話のように思われてしまうかもしれないが、『ヴァインランド』同様愛すべき駄目人間たちの愉快な物語でもあるのです。

『ヴァインランド』といえば日本が主要舞台の一つにもなっているが、そのせいか『LAヴァイス』でも日本への目配せが用意されている。おいしいパンケーキを出す日本人シェフ、ヤクザの殺し屋イワオなどはピンチョンの創作人物だが、ノグチ検死官やゴジラ、ギドラも顔をのぞかせる。『三大怪獣地球最大の決戦』が『ローマの休日』のリメイク(p.383)だなんてほんまかいなと思ったのだが、「解説」によれば「ドックの目に狂いはなかった」とのこと。『ローマの休日』といえば脚本は赤狩りでハリウッドを追放されたダルトン・トランボ。そしてドックのヒーローはこちらも赤狩りでハリウッドを追放されたジョン・ガーフィールド。

と、こんな具合に『ヴァインランド』同様、主としてポップカルチャーからの引用やパロディやほのめかしにあふれているわけですが(「解説」で詳述されています)、そこらへんの知識がそれほどなくとも「フツーに読める」(「訳者あとがき」)作品になっています。チャンドラーやディックの名を出したが、「天然」である(作品内が結構滅茶苦茶なことが多い)この二人とは明らかに違うピンチョンは、もちろんこれらにそれなりの意味をこめていたのであろうから、そこに耽溺するのもまたよし。

帯には「2014年にP.T.アンダーソンがロバート・ダウニーJr.主演で映画化との噂」とあるが、これまでのピンチョン作品であれば映像化など想像もつかなかったことでありますが、『LAヴァイス』であれば確かに可能に思えてくる。これまでの作品からすると比較的「読みやすい」はずの『ヴァインランド』でも時間軸なんかはかなり複雑なものがありましたが、『LAヴァイス』では基本的には直線的で、この点で混乱させられるようなことはないでしょう。それほど「フツー」であるところは、コアなピンチョンファンにとってはやや好みが分かれるところかもしれませんが、これまでピンチョンに足がすくんでしまっていたような人にとっては、一風変わったハードボイルドタッチのミステリーとして、それほど肩に力を入れずとも楽しめるようになっている。

ピンチョンを読んだことがないという人にとっては一番とっつきやすくなっていると思うし、60年代あたりのカルチャーシーンに惹かれるところがある人ならとりわけ興味深く読めることでしょう。
ピンチョンの作品としては少々「薄味」かなという気もしないこともないけど、作品世界としては個人的にはかなり好きなものでありました。

それにしても映画化がこの通りに実現するなら、ロバート・ダウニーJrはまたジャンキー役をやることになるのか。もっともドックはヘロインには手を出さず、コカインのような高価なドラッグも敬遠し、ラヴでピースフルなマリファナ専門なのですが(ある意味では志の高いヒッピーなのです)。

「フツーに読め」て、映画化も可能とは書いたのですが、とはいえそこはやっぱりピンチョン。厖大な数の登場人物には例のごとく「これ、誰だっけ」ってなことにもなってしまうのもまた事実ではありました。「ピンチョン全小説」もついに『重力の虹』を残すのみ、ここいらで「ピンチョン作品人物事典、詳細年表付き」みたいなのが出てくれればうれしいのですが(やっぱりネットじゃなくて紙の本を手元に置きながら読みたい)。需要は間違いなくあるはず、とまで胸を張ってはいえないけれど、少なくともここに一人、確実に購入する人間はいますから。

この作品の音楽についてはinherent vice playlistにずらずらずらっと。

ピンチョン自ら!





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佐藤太郎(仮)

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