『宗教とは何か』

テリー・イーグルトン著『宗教とは何か』





宗教は、言語に絶する悲惨を人事にもたらしてきた。今日の大部分は偏狭な信念や迷信や誇大妄想や抑圧的イデオロギーなどが織りなすおぞましい物語そのものだった。それゆえ合理主義とヒューマニズムに立脚する宗教批判者たちに、わたしは大いに共感をおぼえる。しかし、この本で議論するように、そうした批判者たちの宗教否定の議論は、あまりに安っぽいのもまた真実なのだ。(p.10)


2008年に行われた講演をまとめたもの(こちら)。イーグルトンの本は久しぶりに読んだのですがなかなか面白かったです。
イーグルトンといえばマルクス主義文学批評の大物であり、その彼が宗教を語る、しかも擁護するとは? とお思いの方もいるかもしれないが、自伝エッセイ『ゲートキーパー』をお読みの方ならご存知の通りイーグルトンの出発点はカトリックでもあるのですよね。そこらへんにも触れてあります。


イーグルトンが本書で試みるのは宗教の中のある種の部分を救い出すことであり、その目的は可能性を開くことにあるのではないだろうか。

先に引用した部分からわかるように、イーグルトンは宗教はとにかくすばらしいものなので尊重しなければならないといっているのではない。宗教を読み替えていくことによってその可能性を開こうとしているのである。
例えばこんな箇所はどうだろうか。

イエスは、おおかたの責任感あふれるアメリカ市民とちがい、なにも仕事をしていないように見えるし、大食漢の飲んだくれと非難されている。彼はホームレスの人間として提示されている。財産もなく独身で、逍遥派であり、社会的周辺においやられ、親類縁者からは鼻つまみ者とされ、定職につかず、浮浪者や非民たちの友であり、物質的所有を軽蔑し、自身の安全をかえりみず、純潔規定には無頓着で、伝統的権威には批判的で、体制側に突き刺さった茨の棘、金持ちや権力者に天誅をくだす者である。(pp.24-25)

このようなイエス観はキリスト教内部では多数派ではないかもしれない。
イーグルトンがここで行おうとしているのは、宗教にもこのように抵抗の足場となる役割を果たすことができるということの論証であろう。
左翼はしばし宗教には及び腰であるばかりでなく、むしろ排撃すらしてきた。このような姿勢は宗教を妄信するのと同じように愚かなのかもしれない。

マルクスといえば、どちらかといえば揶揄的なニュアンスでその思想とユダヤ・キリスト教的発想との類似が指摘されるが、イーグルトンはむしろこれを肯定的に捉える。
そもそも近代リベラリズムはキリスト教と矛盾するものではなく、むしろキリスト教によって準備された部分も多いのではないか。その伝統を知らずに「リベラル」を気取っている連中が宗教批判を繰り広げることの愚かしさよ、となるのである。

本書でイーグルトンがやり玉にあげるのはそのような「リベラルな教条主義者」である。
その象徴が「ディチキンス」だ。これは激しい宗教批判を繰り広げるリチャード・ドーキンスと先ごろ亡くなった(本書刊行時には存命)クリストファー・ヒッチンスをかけあわせたものである。

批判者が敵の姿に似てきてしまうというのはしばし見られる現象であるが、「ディチキンス」のように宗教の狂信性を批判する人間が狂気じみた発想をしてしまうようにもなりかねない。イーグルトンに言わせると、彼らはアメリカのテレビ伝道師にその思考法がなんと似ていることか。

またリベラリズムの隘路としてしばしあげられるのが、不寛容に対してどこまで寛容であるべきかということだ。
マーティン・エイミスらが表現の自由を擁護する観点からイスラム教を批判するが、では彼らは同じように西側自由主義、キリスト教、資本主義の災厄に批判の目を向けるのだろうか。イーグルトンは今日では人種差別を公に表明することは憚られているが、宗教批判として形を変えて表出しているのではないかと厳しく批判する。


現実政治においてイーグルトンの意見に耳を傾ける人は現在ではそう多くないであろうし、時代から取り残された哀れな人とすら写っているかもしれない。当人もそれをある程度自覚してもいることだろう。
イーグルトンの社会主義への忠誠はある意味では宗教的であるといっていいのかもしれない。ではそれは単なる逃避なのだろうか。

この世界――苦痛のうめきをあげてもがくのを、わたしたちが目の当たりにしているこの世界――が、物事のとりうる唯一の姿であるとはどうしてもおもえないからである。(中略)これが望みうる最高の状態だと考える、なんともけちな現実主義者に驚きの念を禁じえないからでもある。社会主義のヴィジョンを撤回することは、人間のもっとも貴重な能力と可能性とみなされるものを裏切ることになるからでもある。(p.158)


僕自身は信仰心というものをまるで持っていない。より正確にいうならば、それがどういったものなのか想像することすらできないのである。身近で宗教にはまってしまった人なども見たが、いったいどういう思考経路をたどればああいうものを信じられるようになるのかが、嫌味ではなく本当に不思議なのである。
そう考えると僕は「ディチキンス」の側に立つ方が自然なのかもしれない。しかし圧倒的にイーグルトンの側にシンパシーを憶えてしまう。それは「ディチキンス」が世界を狭めてしまう思考法を取るせいであろう。もちろんこれは偏狭な宗教的狂信にしても同じである。世界は狭いよりも広いほうがいいに決まっている。その可能性は大きく開かれているべきだし、宗教は必ずしも世界を狭める側ではないのである(もちろん往々にしてそっち側になってしまうということは重々にふまえなければならないが)。

いくら左がかってるとはいえ、僕としてはさすがに社会主義に「信仰心」を抱くことはできないし、様々な問題で必ずしもイーグルトンに同意できるのでもない。それでもやはり充分に読む価値のある人であると思わせてくれる一冊でありました。
人文学が何かと肩身の狭い世界となってしまったが、もし人文学に意義があるのだとすれば、それは世界を広げる可能性を示すことであると思うし、その点でいろいろとヒントを与えてくれる本ではないかと思う。もっともイーグルトンが示唆するように、人文学最後の砦が神学であるのだとすると、それはそれで寂しいものなのですが。




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佐藤太郎(仮)

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