『オウム真理教の精神史』

大田俊寛著 『オウム真理教の精神史  ロマン主義・全体主義・原理主義』





大田はオウム真理教に関する著作を元信者によるもの、ジャーナリストによるもの、学問的なものとに大別し、学問的著作が「その役割に見合う水準のものがいまだに現れていない」(p.19)と評価する。
そのうえでキリスト教の異端であるグノーシス主義の研究者である著者が、「キリスト教思想史の知見を用いれば、意外にもオウム問題の全体像を、これまで以上にうまく捉えることができるかもしれない」(p.282)として挑んだ「異色」のオウム論である。

第1章から第4章までの章題をあげると、それぞれ「近代における「宗教」の位置」、「ロマン主義」、「全体主義」、「原理主義」となっている。
こう見ると非常に迂遠かつ抽象的な議論のように思われるかもしれないが、これがオウムをどう捉えるかという問題に、ピースがきちっとはまっていくような快感すら伴うように分析されていく。

ただ読んでいくうちに、やや違和感を覚える人もいるかもしれない。そのピースがあまりにピシっときれいにはまりすぎてはいないか、と。
その理由を勝手に忖度するなら、本書はタイトルの通りオウム真理教を論じたものであるが、同時にポストモダン批判という性格も持っているためなのかもしれない。

大田はオウム真理教が「近代の宗教」の一つであるということを「一見ししたところあまりにも自明の事実」(p.25)だとしている。
オウムとは「ロマン主義的で全体主義的で原理主義的なカルト」であり、「ロマン主義、全体主義、原理主義という思想潮流が発生し、社会に対して大きな影響力を振るうようになったのは、近代という時代の構造」だとする。「国家が此岸の世界における主権性を獲得し、宗教や信仰に関わる事柄が「個人の内面」という私的な領域に追いやられるという構造そのものに起因していると考えることができる」(p.276)。

「近代社会は根本的に、歪んだ「宗教」が数多く発生するような構造を備えている」(p.45)のであるならば、「反近代」であるポストモダンにこそそれを乗り越える答えがあるのではないか。そのような安易さこそ大田が批判しているものの本質なのかもしれない。

序章において中沢新一と宮台真司に対してとりわけ厳しく批判がなされている。中沢はともかく、宮台は『終わりなき日常を生きろ』でオウム的なるものを否定したのではなかったか。しかし大田は中沢も宮台もポストモダンからの影響という点では同工異曲だとしている。宮台がここで賞賛した「ブルセラ少女」をニーチェ的超人幻想だとし、「ニーチェ的な超人幻想は、決してそれによってオウムの世界観を克服できるようなものではなく、むしろオウムの思想史的源流の一つに位置づけられるもの」(p.16)なのだとする。宮台は「援交少女」が「メンヘル」化したのをうけて、「当時の判断の誤りを認めている」のだが、本書では触れられていないもののその後「援交から天皇へ」などということを言い出したことを考えると、はたして本当に「判断の誤りを認めた」のかは疑わしくも思える。

大田は何もポストモダンという概念を弄ばずとも、オウムやオウム的なものに対する分析は充分に可能であることを示そうとしたのかもしれない。とりわけ日本では戦中の「近代の超克」という記憶を抱えているわけで、安直な思考方法でオウム(的なるもの)に容易に感染してしまうポストモダン系への評価は厳しくならざるをえなかったのだろう。 


ここで話を脱線。
前に島田裕巳の中沢新一批判本を読んだ時にも感じたのだが、ポストモダンを趣味的に摂取してきた僕のような人間からすると、中沢新一というのはそれほど「危険」な人物なのだろうかという疑問が湧く。
オウム事件の後、「諸君!」において(というのもすごいが)浅田彰と中沢新一との間で対談が行われた。浅田はここで、中沢が書いてきたものは「小説」であり、その「小説」を読んだ人間がおかしなことをしたからといって責任なんて取ってられるかという趣旨のことを言っていた。もちろん浅田は友人であった中沢を擁護するためにこのような発言をしているのだが、この発言に対しての中沢の心中は複雑なものだったのかもしれない。ただ僕としてはこの浅田の発言というのは「そうだよなあ」と思ってしまうところがある。

僕は中沢の本をいくつか読んでいて、結構楽しんでもいる。楽しんだとはいえ、「本気」にはしていない。読んだのはオウム事件の後だったのだが、たとえその前だったとしても、あれらを「本気」で受け止めることはなかっただろうと思う。
「スター・ウォーズ」を魅力的にしているのは「フォース」という設定だ。ルークがただの腕利きパイロットにして剣の達人というだけではあそこまで人々を引きつけることができたのただろうか。だからといってフォースは実際にあるのだ、などといって修行を始めるような人間がいたら、ジョージ・ルーカスが実際に何を考えていたかに関わらず、それはもうただのアホとしか言いようがないのではないか。

中沢が「研究者として規律違反に当たる」ことは批判されてしかるべきだと思うし、オウム事件以後の言動に誠実さが欠けていたことも否定できないと思う。ただいつの時代でもバカやアホというのはいるわけで、中沢が『虹の階梯』を書こうが書くまいがオウム、あるいはそれに類したものは出現していたことだろうし、その中で中沢が果たした役割というのはそれほど大きなものなのだろうかというのはずっと疑問に思っていたところなのである。

……のだが、原発事故以来中沢が「元気」になってしまって、「グリーンアクティブ」とやらを立ち上げて、てそれにベタに期待しちゃってる人なんかを見るとう~むというところなのだが。さらにそこに宮台も参加するなんてのを目にした後で本書を読むとやはりいろいろと考えさせられる。
本書は2011年3月刊行なので、執筆は当然震災の前なのであるが、原発事故以降の中沢や宮台の言動を考えあわせたうえで序章を読むと、いっそう味わい深いかもしれない。


閑話休題。
本書はオウムについて考えるという点でもいろいろ得られるところは多いが、それ以上に使い道というのが広い。
近代とは何か。近代国家と宗教との関係。近代の落とし子としてのロマン主義。それがオカルトやニューエイジへどうつながっていったのか。ナチズムが生まれた背景と、なぜあそこまで支持を拡大できたのか。あるいは日本の原理主義の源流、そして神学に疎いはずの日本人がキリスト教的終末思想をいかに摂取していったのか、などなどがコンパクトにまとめられている。
こういう問題をさばく著者の手腕はなかなかのものだと思いました。



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佐藤太郎(仮)

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