中沢新一という存在について

こないだ『オウム真理教の精神史』の感想を書いたと思ったらシノドスジャーナルに「オウム真理教とアカデミズム」という大田俊寛氏のインタビューが載っていた。おお、シンクロニシティ!と思ってしまったが、この話題でユングなんぞを持ち出すのもアレですが。


これを読んで、改めて自分の中での中沢新一氏への評価というのはどうなんだろうということを考えてしまった。
『オウム真理教の精神史』の感想の中で、「中沢新一というのはそれほど「危険」な人物なのだろうか」と書いた。これは中沢氏を擁護するというよりは、それほどの影響力ってほんとにあったのだろうか、というつもりだったのだけれど、この評価というのは僕が勝手にこの問題を過小評価しているだけなのだろうか。

僕が中沢新一氏の影響力を軽く見てしまっているとすると、その原因はいくつか思いあたるところもある。
地下鉄サリン事件が起きたのは1995年の3月なので、僕は16歳だったことになる。そのくらいの歳ですでに中沢氏の著作に馴染んでいた人もいるのだろうが、僕は当時は「中沢新一という名前は聞いたことがある」という程度だった。その後中沢氏は強い批判にさらされることになる。中沢氏のことをよく知らなかった僕も「これで中沢新一も終わりだな」みたいなことを思った記憶がある。つまり僕はその著作に触れる前に、すでに中沢氏が「終わっている」という認識を持ってしまっていた。もちろん「終わっている」から過去がチャラになると思ったわけではないが、そのせいで彼の存在というのを今でも低く見積もってしまっているのかもしれない。
考えてみれば大学を追われたわけでもなく、その後も旺盛に著作活動を続けているわけで、「全然終わってなんてなくて、逃げ切ったじゃないか」と言われれば確かにそうなのだろう。

大田氏は74年生まれで、僕よりやや年長とはいえ同世代といっていいのだが、オウム真理教と中沢新一氏との関わりを考えると、中沢氏の著作にいつ触れたのかということを含めてこの差は大きかったのかもしれない。ただ中沢新一氏をどう捉えるかということに関しては、必ずしも年齢のみによって差が生まれたのでもないかもしれない。


大田氏のインタビューに次のような箇所がある。

私が自分なりに物事を考えるようになったのは、高校時代に受験勉強に対して強い違和感を覚えたことがきっかけでした。
(中略)
そんな中、現代思想やポストモダニズムからも人並みに影響を受けましたが、中沢新一さんの著作にはとりわけ強く惹かれました。中沢さんの仕事を見ていて、「こういう仕方で学問をやってもいいのか」と思わされましたし、自分もチベット密教の修行をすれば、もしかすると今まで見えなかった世界が見えるようになるのかもしれない、新しい能力が獲得できるのかもしれない、と思い込んだところがあります。



大田氏の知的遍歴というものをまるで知らなかったのだが、こういう「実存的」(というかなんというか)煩悶から宗教学に興味を持ったというのは意外なような気もしてしまった。


僕は自分が相当な変人だというのは承知しているし、こういう自分が社会や世間というものと折り合いが悪くなるのは仕方がないと思っている。今までずっと、どこに居ようとも自分が場違いであるという思いを払拭できたことはないし、これからもそうだろうと思う。「こういう人間はもう死ぬしかない」というのは、今でも真剣に考慮すべき選択肢だと思っている(「死にたい死にたいとやたらと言う人間は死なない」という人がいるが、これはまぁ……確かにそうかなとも思うけど)。

この手の人間が大抵そうであるように、僕もやはり文学だの哲学だの思想だのというものに興味を持ってきた。ただ自分でも不思議といえば不思議なのだが、宗教的なものに惹かれるということはまるでなかった。本棚を見れば宗教関係の本はいくらかはあるのだが、これらは文化史や思想史的な興味から読んだものである。信仰というものは自分とは無縁だと思ってきたし、この点はまったく変わらない。

こんなブログを書いているくらいだから、「承認欲求」がまるでないと言えば嘘になるだろうが、世間から認められたいという願望はそれ程は強くないと思う。また常に自分が場違いなところにいるように思ってきたが、かといって「自分の居場所が欲しい」という強い思いもあまりない。どちらかといえば「もう諦めて一人で勝手にやってますのでそっと静かにほっといて下さい」という感じかもしれない。

承認欲求が強い人や自分を受け入れてくれる場を探し求めるような人というのが苦手で、そういった人への共感というものを覚えることもない。当人自身は承認され、居場所を見つけていても、こういった人に共振してしうような人もいるが、そういう人に対する共感というのもあまりない。
近年でいえば「秋葉原無差別殺傷事件」にいろいろな意味を見出そうとした人たちがいたが、そういったものにはまるで乗れなかった。

80年代といえば新興宗教や自己啓発セミナーの時代でもあるが、軽薄な世相に愛想をつかしといっても一気にそこまで飛んでしまう人というのは僕にとって遠い存在である。
オウム真理教の一連の事件が報道される中で、あれだけの高学歴の人がなぜこんな荒唐無稽なものにひっかかるのかというのは大きな関心を集めたが、「そういう人って学歴云々に関わらずいるもんでしょ」という以上には思えなかった。
でも、これって完全に俺様基準の話であって、「お前がどう他人を評価しようが、こういう問題は時に深刻な事態を引き起こすことがあるんだよ」と言われればその通りであるとは思う。

いつの間にか長々と「自分語り」を始めてしまったが、要は自分が中沢新一氏が提供したイメージに過度のシンパシーをを覚えることがないからといって、そういう人がいないということにはならないし、自分がそういう人から距離を置いてきたからといって、そういう人の数が無視していいほど少ないというわけではない。そういうことが、僕には実感として伴っていないことが、中沢氏の影響力を過少評価することにつながっているのかもしれない。

『オウム真理教の精神史』でも、オウムに似た発想や行動をとった宗教団体の例があげられていたが、オウムが存在せず中沢氏の著作がなかったとしても、似たような事件は起こったかもしれない。しかしだからといって中沢氏がオウムに対して与えた影響が免罪されるということではない。また中沢氏の影響力を過少評価することは、その不誠実な振るまいを大目に見てしまいがちなことにもつながっているのかもしれない。そういったことをもう少しふまえたうえで、中沢新一という人物について考えてみるべきなのかもしれない、なんてことを思いながら。

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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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