『危機の宰相』

沢木耕太郎著 『危機の宰相』




初出は1977年の「文芸春秋」である。「あとがき」によれば積極的に封印したというより、消極的理由から単行本が刊行されるまで約30年もの時間がかかってしまったようである。
池田勇人とそのブレーンであった田村敏雄と下村治の姿を描いた本作は、この時間差によってかえって示唆してくれるものが大きくなったようにも思える。


今となっては意外にも思えるが、1950年代の末は日本経済に対して悲観的な見方が広まっていた。下村のような成長を唱える「オプティミスト」は少数派ですらあったようである。
一方の「ペシミスト」の代表格ともいえるのが都留重人であった。都留は「下村理論を基礎に構築された池田内閣の高度成長政策」を次のように批判した。「泥道を自動車がスピードをだして突っ走れば、泥をはねる。スピードをだせばだすほど、はねる泥はひどい。池田内閣の高度成長政策は、この自動車みたいなものだ。自動車のスピードさえでれば、はねる泥で迷惑する人があっても、それはやむをえない、というかに似ている」。
沢木はこれを「永遠の正論」と切り捨てているが、都留のような見解は現在にまで連なる「成長よりも成熟」といった反経済成長論の雛形だと言えるのかもしれない。

池田、田村、下村が共通に抱えていた問題意識は完全雇用に近い状態をいかに達成するかであった。とりわけ戦後のベビーブーム世代が労働市場に流れ込むことが迫っていた50年代末において、これは極めて切迫した課題であったのである。これに対して都留が、あるいは日本経済へのペシミスト(これは必ずしも左翼陣営に限られていたのではない)が池田らに代わる解答を持っていたのかは大いに疑問に思える。
ここらへんの現実を前にした問題意識というのは現在でも(というか現在だからこそ)大いに教訓とすべきことではないか。

沢木はこの三人の共通点として「敗者」であることをあげている。三人とも大蔵官僚出身であるが、京大出身なうえに大病を患い長期休養もした池田。苦学をして28歳で入省、その後キャリアに見切りをつけ満州に渡り、敗戦後はソ連に抑留された田村。病弱なうえに「孤高」の理論家だった下村。彼らが妄想的ともされながら、その実極めてリアリスティックであったのはこのような体験に裏打ちされていたのかもしれない。

政治を語る際に「劣化」という言葉はあまり使いたくないのだが(昔はそんなに良かったのか?)、本書を読むと、現在の自民党の劣化ぶりというのものも浮き上がってくる。
当時は岸信介の強引な政権運営もあって自民党への批判も高まっていた。次期総裁をめぐっては、このような政治状況では苦労するばかりなのでここは待つべきだという意見を池田の側近であった大平正芳も持っていた。しかしフタを開けてみれば、池田政権は選挙にも強く安定して高い支持率を維持することになる。
一つには「完全雇用」を目指したように、多くの人が池田の成長路線から恩恵を受けていた、あるいは受けられるだろうという期待があった。しかしそれだけではないだろう。

土師二三生によれば、池田は「自民党内右派勢力が強引に提出してくる「後ろ向きの法案」を通すことには消極的だったという」。
岸は「力」によって自民党を一つにまとめあげた。
「自民党がこの強力な単一政党という性格を持っていなければ、池田といえども所得倍増政策を推し進めることはできなかったかもしれないのだ。しかし、池田内閣は、賢明にも、その「力」を国会運営の場で行使することをしなかった。野党と激しく対立しそうな法案をほとんど上程しなかったのだ」。

もちろんこれは政治的したたかさというのもあるだろう。このような宥和的な姿勢によって国民の少なからぬ人が岸へ抱いた嫌悪感や警戒感を鎮めることができた。しかしこれをただの政治的方便とだけで片付けることもできないだろう。
沢木は池田の側近であった前尾繁三郎の文章を引用し、これを「国家主義的な強制力に基盤を置かず、自由な個人の力によって社会の進歩を期待するという、「柔らかい保守主義」とでもいうべきもの」と評している。池田の周囲にはこのような政治家がいた。
現在の自民党が「右派勢力」に振り回され、現実からも目をそむけ(今の自民党の政治家からどれだけ雇用を重視するという姿勢を感じとれるだろうか?)、「柔らかい保守主義」という長期に渡って政権を維持できた理由の一つをすっかり失ってしまっているのを見ると、やはりこれは「劣化」と評するのがふさわしいように思える。


本書からどことなく「三丁目の夕日」めいた懐古趣味を感じてしまう人もいるかもしれない。
執筆時の77年といえば自民党政治への批判とともに、高度経済成長が終わり、オイルショックなどにみまわれ経済成長への批判的な見方が広がってきた時期である。それへのアンチテーゼということもあったのかもしれない。沢木は当初は下村を「御用学者」というような先入観で入ったのだが、インタビューをしてその見方に変化が生じたとしている。

同時に、本書はただ池田らを褒め称えるだけのものでもない。
池田が「運が良かった」ことも間違いない。沢木は高坂正堯の「確かに経済発展という比較的単純な目標を国民の大多数が信じえたのは特異な幸福の時代だったのかも知れない」という言葉を引用している。そして池田は「死ぬまで「公害」という言葉を意識せずに済ん」で生涯を終える。池田政権時にすでに水俣病が発生していたにもかかわらず、である。

またグロテスクとしか思えない描写もある。
池田は秘書の伊藤昌哉に、岸の後継になることについて「仙人がね、次は俺だっていうんだよ」と語っていたそうである。この「仙人」を児玉誉士夫だと解釈する人もいたようだが、その正体は「宏池会に出入りしている文字通り「仙人」という名の占い師」だったのである。「宏池会」の名付け親は安岡正篤であることにも触れられているが、政治家とオカルトという面でも池田はかなり危うい位置にいたこともわかる(もっとヤバい人もゴロゴロいるのだろうが)。

池田といえば「放言癖」でも知られているが、この経緯を含め政治とメディアの距離感の異様さも描かれている。当時にあっては常識であったこのような異様さは、今にいたるまで「政治部文化」として残されている。


と、このように、今読むことによってかえって「右」も「左」もいろいろと得られるところも多いかもしれない。
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佐藤太郎(仮)

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