『知事抹殺』

佐藤栄佐久著 『知事抹殺  つくられた福島県汚職事件』





本書は2009年の刊行であるが、今読むことでより考えさせられるところも多くなっている。

生い立ちから福島県知事就任までが簡単に述べられているが、日本青年会議所での活動から自民党参議院議員を経て県知事へという略歴を見てもわかるように、佐藤は保守政治家である。

保守政治家としての性格がよく表れているのは地方分権をめぐる議論の箇所かもしれない。佐藤は「闘う知事」であり、分権を進めるべきという立場であるが、当時もてはやされた「改革派知事」とは距離がある。
当時神奈川県知事の松沢成文が首都圏一体化と道州制の導入を主張することに、「まるで国の代理人のようである」(p.128)と切り捨てている。その後も松沢は「「憲法改正と地方自治」を論じる研究会を、知事会に設置するよう提案」(p.131)して一笑に付されている。佐藤のような保守政治家からすると、いかにも松下政経塾出身らしい見当違いの空論を弄ぶ松沢のような政治家は笑止千万というところなのだろう。
松沢ほどひどくなくとも、他の「改革派知事」たちも官僚の前に骨抜きにされる姿も描かれている。これには言われたほうからは反論もあるだろうが、中身がどうかよりも「改革」という言葉をもてはやす傾向のあるメディアの姿勢などとも考え合わせて振り返る必要もあるだろう。

佐藤が知事として行ったことで、現在最も関心を集めるであろうことが「原発をめぐる闘い」だろう。
参議院議員時代の87年に東欧訪問に随行した佐藤は、晩餐会で出される料理にいちいち「これはチェルノブイリで汚染されていない肉です」と説明があったことが原発事故とその影響についての「原体験」となったとしているが、反原発を掲げて知事になったのではない。

一部で誤解されているかもしれないが、佐藤は原発を否定して「原子力ムラ」と闘ったのではない。
求めていたのは「事業者と県民との信頼」を築くことであり、「ブルドーザーのように『そこのけ、そこのけ』と原子力政策を進める第一期から、第二期の新しい原子力の時代」(p.59)に入ることだった。

福島にある原発は様々な事故を起こしてきたが、東電はそれに誠実に対応するどころか、事故隠しやデータ捏造などで応じる。にんじんをぶら下げたかと思えば「脅し」もかけて黙らせようとする。
もちろん問題は東電にだけあったのではない。双葉町が「原発の後の地域振興は原発で」と、まるで「麻薬中毒患者が「もっとクスリをくれ」と言っているのと同じ」(p.54)ような状況に陥るなど、「自治体の「自立」にはほど遠い」など、原発設置自治体も大きな問題も抱えていた。

しかし何よりも、「国こそが本物の「ムジナ」」(p.82)であることを、佐藤は痛感させられる。
原子力保安院から一枚のファックスが送られてくる。そこにはこう書かれていた。
「東京電力福島第一・第二原発の故障やひび割れなどの損傷を隠すため、長年にわたり点検記録をごまかしてきた」
普通であればこれだけでもとんでもない大騒ぎのはずなのだが、保安院は電話で「送りましたからご覧下さい」の一言のみであった。実はこれは、二年も前に内部告発がなされていたのに保安院は対応をしてこなかったのであった。

佐藤は「当事者の東電よりも、告発を受けながら二年間も放置して来た国と原子力保安院に対して感じた怒りのほうが大き」く、「本丸は国だ。敵を間違えるな」(p.83)と激を飛ばした。
「これでは保安院ではなく、推進院ではないか」(p.80)という指摘を、佐藤は2001年にしていた。
2003年に東京電力の持つ原発が全て停止し、「首都圏大停電」まで言及がなされるようになるが、
「しかし、電気を使う方の首都圏はのんきなもの」(p.95)であり、読売や日経はこの責任があたかも福島にあるかのような社説を掲げていた。

2004年の四人の死者が出た美浜原発事故が起こった時、当時新潟県知事の平山征夫は「関西電力では起きるよな」とつぶやいたという(p.102)。「「関西電力の体質の問題だ」と看破していた」のである。きちんとした手順を踏めば避けられたはずのこの事故について、佐藤は「「安全軽視は関西電力の企業文化」のようだ」としている。

今にして思えば、99年のJOC臨界事故を含め、この頃というのは原子力行政や電力会社の長年にわたる歪みが表に出てきた時期だった。
歴史において「たら・れば」を言い出せばきりがないが、この時に原子力行政や電力会社に対して厳しい目を向け、批判的考察が広く行われていたら、その後の状況は大分異なったことだろう。
プルサーマル計画について青森県に続いて佐賀県が「陥落」した(p.109)との記述もあるが、佐賀県知事の古川康は、「やらせメール」等が発覚した後もたいして責任が追求されていないことを考えると、はたしてこの教訓を糧にしているのかといえば疑問に思える。

ある記者は「原発問題は知事のプロレスだった」と評したという。佐藤はこれに、「筋を通せ」「情報は透明に公開せよ」ということを言っているだけで、「命をとるわけではない」という点では「ある意味では当たっているのかもしれない(p.112)としている。「もともと私は、原発については反対の立場ではない」のであり、ただ「譲れない一線」を守ろうとしただけなのであった。しかし「佐藤栄佐久憎し」という感情が渦巻くことになる。


本書におけるもう一つの大きな注目点が特捜検察問題であろう。
佐藤は2006年に収賄容疑で逮捕される。これには早くから「国策捜査」ではないかという批判の目が向けられていた。
その強引な捜査、並びに暴力的な取調べの実態が詳細に記されているが、ここらへんは江副浩正の本に目を通したことがある人なら想像がつくことだろう。
そういえば佐藤栄佐久の弁護人は宗像紀夫であるが、宗像はリクルート事件の主任検事。リクルート事件の「火付け役」は朝日新聞で、佐藤の件は「アエラ」であるというのは偶然か因縁か。

江副の本での取調べの様子と本書での取調べの様子を比べると、江副の方が厳しく締め上げられたという気がするが、この間に特捜検察の取調べが変化したというより、佐藤自身ではなく身内(弟も逮捕されている)や支持者など周辺の人物を締め上げて「自白」を得て、それをてこにしようとした気配もある。
佐藤といえば海千山千のベテラン政治家だけに「落とす」のは簡単ではないという判断があったのかもしれないが、その佐藤ですら自殺を図った人が出るなどの状況に、ついには追い詰められ「自白」することに同意してしまう。
取調べには「いい刑事、悪い刑事」という手法があるが、佐藤もその手法に乗せられある検事を信頼しきってしまう。冷静に考えればよくあるやり口だが、あの状況下ではベテラン政治家ですらこうもなってしまうのだろう。

ここに描かれる検察の姿は、検察に批判的な目を向けている人ならおなじみのものだ。
この件では読売新聞があたかも検察の広報のような役割を果たし、節目で一面にスクープを載せている。検察はこのような報道を見せることで被疑者の動揺を誘おうとする。しかし総会屋的というか政治ゴロ系とおぼしき雑誌の存在をことさら重要視して取調べの材料にもしていることは、この件の検察の強引さというものも印象づける。

宗像は「私の時代には、シロをクロと言うようなことはなかった!」と後輩の検事に向かって言ったそうだが(p.327)、これを素直に受け取ることはできない。
検察は「作ってでも言ってもらう」「マインドを切り替えて」「佐藤栄佐久の悪口を何でもいいから言ってくれ」「もう図は完成していて、変えられない」などと支持者たちに言っていたそうだが、江副本を読むとこれと似たようなことは過去からずっと行われてきたのだろうと思えてしまう。

裁判のくだりを読むと、検察は括弧付きの「司法取引」(違法行為を見逃す、あるいは減刑する代わりに検察の意に沿う証言をさせる)によって有罪に持ち込もうとした疑いが強い。
しかしこのような証言者が往々にしてそうであるように、とても信頼に足るようには映らず、発言は矛盾に満ちたものとなる。

検察の問題というのは現在では広く認識されるようになったが、検察もさることながら、一番「罪」が思いのは裁判所ではないだろうか。
批判の強い「人質司法」や「自白偏重主義」というのは、裁判所がきちんと保釈を認め、「自白」にばかり目を奪われずに証拠に基づいた判断を示せばすぐに改善することである。普通に考えれば「拷問」としか思えない取調べを容認しているのも裁判所であり、足利事件の時も指摘されたが、「自白」の内容がいかに荒唐無稽で非現実的であっても、裁判所はしばし「自白した」という行為のみを取り上げ有罪判決を下す。
「三権分立」と言うが、日本の場合司法は事実上行政に組み込まれているも同然であるという印象を抱く人は多いだろう。
佐藤の裁判でも、元水谷建設副社長は脱税事件に絡んで検察官から言われるままに証言し、後に「知事はぬれぎぬだ」と語っていたが、裁判長はこの証人申請を却下している。

佐藤の事件を担当した森本検事はこう言ったのだという。「知事は日本にとってよろしくない。いずれは抹殺する」(p.305)。
第三者からはこの発言の真偽は確かめようがない。これをもってこの事件を「国策捜査」だとする人がいるが、この「国策捜査」も人によって定義がまちまちで、同意できるものもあれば首をかしげざるをえないようなものもある。
しかし状況から考えると、検察があらかじめターゲットを決めた上で見込み捜査をした疑いというのは極めて強いと感じる。では検察側の「動機」が何であったのかは推測の域を出ない。電力危機を招きかねないような国益に資さない人物だと判断してのことかもしれないし、地方分権問題で目だっているので「出る杭を打つ」ということだったのかもしれない。また佐藤の側に「脇の甘さ」があったことも確かなので、なんとか政治家をあげたいという発想から、こいつならやりやすいだろうというだけのことだったのかもしれない。

ただこの一件だけを取り上げても、検察が相当に無茶をする組織だということは確認できる。繰り返しになるが、それを可能にさせているのは裁判所である。
「検察に詳しいジャーナリストが「実質無罪、検察にとって厳しい判決」という記事を書いていたのを、のちに見た」(pp.336-337)とあり、同様の見方をする人は多い。しかし「実質無罪」なのであれば、なぜ無罪判決を出さないのかというのは当事者ならずとも思うところだろう。「検察の面子を立てた」と批判されてもやむをえないのではないか。


本書には佐藤が四元義隆にかわいがられたということを自慢げに語るところがあって、こういうのは個人的には「おえ~」という感じなのだが(日本の「保守」はなぜこの手の人のことが好きなのだろう)、裏を返せば佐藤はやはり保守エスタブリッシュメント側の人間だということにもなろうか。
検察がどのような動機をもって佐藤を狙ったにしろ、原子力行政、電力会社にとっては許容範囲を超えた存在と映っていたのだろう。このような保守政治家ですら「憎し」という感情ばかりが先行し、建設的な対応が取られなかったという状況は、今読むからこそより暗い気持ちにさせられる。




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佐藤太郎(仮)

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