『時間のなかの子供』

イアン・マキューアン著 『時間のなかの子供』




「公共交通機関に対する補助金交付はすなわち個人の自由の否定であると、政府が、そしてまた有権者の過半数が、この二つを同一視するようになってすでに久しかった。」

この小説の発表が1987年でこの書き出しとくればサッチャー政権との関連が浮かばない人はいないだろう。

政界に挑むことを決めたある人物は、保守党及びその支持者の政策をこう言う。「金融の自由化、軍備の増強、優れた私立学校」。
主人公のスティーヴンはこれらを「どのような事柄においても本能的に強者の側に立つ政治」と評する。

舞台設定はサッチャリズムが浸透しきったような近未来におけるディストピアである。
福祉の削減により「乞食」も働かなければならなくなる。その労働の中身とは「物乞い」である。この作品世界では、子どもたちも含む「物乞い」が溢れている。「物乞い」は免許制であるが、規制されているのではなく奨励されている。もちろん、子どもたちも例外ではない。保守党の政治家は「乞食」が「労働」にいそしむその姿に満足そうである。
裕福であるスティーヴンは「金をやれば、政府の計画をまんまと成功させるようなものだ。やらなければ、それは困窮している個人から積極的に顔をそむけることを意味する」という「出口のないジレンマ」に襲われる。

サッチャーの悪名高い発言に「社会などというものは存在しない」というものがある。
この作品において描かれるのは、まさに社会のなくなった世界である。貧困は社会の問題ではなく個人に帰され、その結果道徳化される。「乞食」が生きていけるのかどうかは金持ちの慈善にかかっている。それがもたらすものは連帯ではなく分断である。
かつては「俺は心底では根無し草の生活をする者たちの側に立っているのだ」と思っていてスティーブンも、「薄汚い貧乏人たちを見ると、警官を探してきょろきょろする、そういうタイプの人間になって」しまうのである。

「ネオリベラリズム」というのはいかようにも使えるマジックワードとなってしまっているが、共通するイメージもある。これはリバタリアニズムとの比較で考えるとわかりやすい。両者を混同している人も見受けられるが、似て非なるものであるはずだ。その最大の違いは、私的領域に国家などの公権力の介入を認めるかどうかであろう。「ネオリベ」は一面では(恣意的な)自由を強調し、またもう一面では権威への服従を要求し、私的領域に積極的に介入する。

本作では、章ごとに『検定 子育てハンドブック』(英国政府出版)からの引用がある。これは架空の書物なのであるが、サッチャリズム的家族観をよく表すものとなっている。
「父親が幼児の世話に日々深く係われば係わるほど、その権威者としての力は弱まっていくというのがその証拠の示すところである」
「家庭に対する愛と尊敬からこそ、最も深い愛国心を導き出すことができるのだ」
「自分の子供に対して権威を示すのが性格的にどうも苦手だという人は、「ご褒美」を系統立てて使うことを真剣に検討すべきである。(中略)何といっても、報奨こそがわれわれの経済構造の基礎をなしているのであり、であれば必然的にそれがわれわれの道徳を規定しているのである」

「家族」と「国家」とを直結させ、家庭での「権威(父性)」を強調し、それこそが「愛国心」を育むものだとする。権威に服従し、報奨(インセンティブ)のみが行動規範となる人間を作り出すことが家庭の役割となっているのである。
この『検定 子育てハンドブック』をめぐってあるスキャンダルが起こるのだが、その内実はまさに「国家」による私的領域への介入そのものである。

この作品は、舞台設定においては政治的なものであるが、プトッロとしては家族の、親子と夫婦の物語であり、友情をめぐる物語である。愛と、その不全についての。とりかえしのつかない出来事や、そこからの回復の物語である。
サッチャーの「社会などというものは存在しない」には続きがある。「あるのは個人であり、家族である」。
家族をめぐる物語は、サッチャー的な世界観と親和性を持ってしまうように思われるかもしれないが、マキューアンが提示しているのは、家族の物語にもサッチャー的世界への抵抗の物語があるのだということかもしれない。それは記憶であり、想像力であり、そこから生まれる可能性である。


訳者あとがきでも触れられているように、マキューアンはもともとは政治的な作家どころかその正反対のイメージすら与えるような、「異常な心理や倒錯した性愛」を描く作家として知られていた(本作にもその要素はちらっと登場する)。
個人的には、90年代以降になってマキューアンは一段高いレベルの作家になったという印象を持っていて、この作品にもどこか過渡期的な印象を受けてしまうのも事実だ。
プロットと作品の背景がうまく溶け合っているかはいささか心持たないし、どこか木に枝を接ぐようなところも無きにしも非ずのように思えてしまう。そういう点では、小説の出来としては(とりわけ後のマキューアン作品と比べると)傑作とは言えないだろう。しかし皮肉にも、邦訳の出た95年よりも現在の日本で読むことでより考えさせられることになる。

マキューアン作品であるから読んだのであって、別に時事的な意味で手に取ったのではなかったのだが、周回遅れのサッチャー信奉者が幅を利かせ、『検定 子育てハンドブック』的な「親学」なるものと政治の結びつき、そして貧困問題を社会問題ではなく個人の道徳の問題にすり変えるような事態が進行する日本の現状を考えると、どこか「予言の書」めいたものにも感じられてもしまう。日本こそが、21世紀のディストピアなのか。

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佐藤太郎(仮)

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