『チボの狂宴』

マリオ・バルガス=リョサ著 『チボの狂宴』





1930年から61年まで、ドミニカ共和国で独裁政治を行ったトルヒーリョ政権末期を中心に描いた作品。
本作はあくまで小説であるので、架空の登場人物や変更された設定や出来事も少々あるようだが、基本的には事実に沿って物語りは進む。これを言い換えるなら、作品を読む前からトルヒーリョがどのような運命を辿るのかを読者は知っているということである。それでもページを繰る手が止まらなくなるほど引きつけられる。

本作の特徴は、多様な視点の導入と時間軸の解体であろう。
1996年に49歳を迎え、久しぶりにドミニカに帰国し、ある過去に触れるウラニア。トルヒーリョ自身とその側近たち。そして暗殺の実行者たち。主としてこの三つの視点から、時を行きつ戻りつしながら、トルヒーリョ独裁政権とは何であったのかがプリズムのように浮かんでくる。
圧倒的に面白く、高い完成度を誇る傑作である……


で、あるのだが、この本を手にしたのはジュノ・ディアスの『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』を読んだ後だったのである。ディアスは『チボの狂宴』に対して「対抗意識」を燃やしたという。それはなぜだったのか。

1968年生まれのディアスは直接にはトルヒーリョ政権を体験していないばかりか、アメリカに渡り移民として育っている。ペルー人であるバルガス=リョサがトルヒーリョを描くのなら、自分にも書く資格はあると思えたことだろう。
しかしそれだけではなく、『チボの狂宴』が「トルヒーリョ独裁政権とは何であったのか」を真の意味で浮かび上がらせる作品だったとは思えなかったということもあるだろう。

ラテンアメリカ小説は近現代を舞台にしたりモチーフにしていても、神話的色彩を帯びることが多い。『チボの狂宴』もその例外ではなく、自らの命運が尽きつつあるのを悟りながらも、悪魔的に掌握の手を緩めないトルヒーリョとそのトルヒーリョに容易に支配されてしまう人々。そしてある決意を固める人々、そして裏切りといった展開は普遍的な人間のドラマでもあろう。
また本作は、とりわけ暗殺のパートなど非常に映画的にも思えてくる(実際映画化もされている)。一つひとつの場面がそのまま映像として脳裏に浮かんでくるような臨場感がある。
逆に言うなら、このような特徴は、実は「トルヒーリョ独裁政権とは何であったのか」という疑問を取り逃がすことになっているのかもしれない。これではトルヒーリョ独特の悪夢的世界を捉えることはできないのではないか、そう思えたのかもしれない。

ウラニアの過去は癒しがたい記憶であり、暗殺者たちの運命は過酷なものである。しかし『チボの狂宴』で描かれるのは、基本的にはアッパークラスの人々であり、普通の人たちがどのような生活を送っていたのかという視点は弱いと言わざるをえないだろう。
『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』はオスカーが「スクール・カースト」の最下層にあったように、ディアスには弱く虐げられている人に寄り添おうという姿勢があった。

そして『オスカー・ワオ』を特徴づける最大のポイントが、「オタク」的想像力の導入である。トルヒーリョ政権下で生きる人たちにとっては、これは神話などではなく逃げようもない現実であり、同時にそれはすんなり映像化できてしまうような理解可能なものではなかったのだろう。その悪夢的世界を描くには、漫画やアニメやファンタジーから想像力を借りてこなくてはならないほど「凄まじい」ものであったのだろう。

もちろんバルガス=リョサも想像力を駆使してトルヒーリョ独裁政権を捉え、その世界を構築してはいるのだが、両作を読み比べると、僕にはディアス的想像力の働かし方というものにシンパシーを覚える。

とは言うものの、小説としてはやはり『チボの狂宴』が素晴らしいことは間違いないのでありますが。





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佐藤太郎(仮)

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