漱石の手紙

いろいろな本で引用されているので読んだ気になっていたのですが、実はまだ未読だったということで岩波文庫版を。

まずは『漱石・子規 往復書簡集』




漱石と子規は明治十七年(一八八四年)、十七歳の時に一高の同級生になり、その後親友になる。その二人の明治二二年から明治三四年までの書簡が収められている。

明治二三年の漱石は「この頃はなんとなく浮世がいやになり、どう考へ直してもいやでいやで立ち切れず、去りとて自殺するほどの勇気もなきはやはり人間らしき所が幾分かあるせいならんか」(八月九日)と気落ちして弱音を吐く手紙を送っている。

子規はこれに「何だと女の祟りで眼がわるくなつたと、笑ハしやァがらァ」と悪態で応じる。もちろん漱石をはげまそうとしてのことなんだけど、漱石は「さすがに詩神に乗り移られたと威張られる御手際、読み去りに読み来つて河童の何とかの如くならず。(中略)しかし時々は詩神の代わりに悪魔に魅入られたかと思うような悪口あり」とマジギレ気味の返事を寄越す。
子規は「肝を冷やし」て「一笑を博せんと思ひて千苦万苦して書いた滑稽が君の万怒を買ふた」事におどろいて謝罪している。

いやあ、こういうのって今でもありますよね。
解説でも指摘されているように、このやり取りは子規の明るい面と漱石の暗い内面が窺えると同時に、すでに喀血していた子規に対して死にたいくらいの気分などというのは無神経ともいえるものでもある。もちろん二人ともそれぞれの将来がああなろうとはこのころには思ってもみなかっただろうけれど。

他にも江藤淳で有名になった兄嫁の登世の死を報せる手紙(明治二四年八月三日)や悪名高い「小生近頃の出来事の内尤もありがたきは王妃の殺害」(明治二八年十一月十三日)なんかもある。


子規の健康状態は悪化の一途をたどり、漱石はロンドン留学に旅立つとき、「小生出発の当時より生きて面会致す事は到底叶ひ申間敷と存候」(子規の死後に高浜虚子宛の手紙)という状況だった。

漱石は明治三四年四月二六日のロンドンからの手紙をこう締めくくっている。

「魯西亜と日本は争わんとしつつある。支那は天子蒙塵の辱めを受けつつある。英国はトランスヴハールの金剛石を掘り出して軍費の穴を填めんとしつつある。この多事なる世界は日となく夜となく回転しつつ波乱を生じつつある間に我輩のすむ小天地にも小回転と小波乱があって我下宿の主人公はその厖大なう身体を賭してかの小冠者差配と雌雄を決せんとしつつある。しかして我輩は子規の病気をなぐさめんがためにこの日記をかきつつある。」

明治三四年十一月六日、子規は漱石宛のあまりに有名な最後の手紙を書く。

「僕ハモーダメニナッテシマッタ、毎日訳モナク号泣して居ルヨウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ後無沙汰シテスマヌ。今夜ハフト思イツイテ特別ニ手紙ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カッタ。近来僕ヲ喜バセタ者随一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガッテ居タノハ君モ知ッテルダロー。ソレガ病人ニナッテシマッタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往ッタヨウナ気ニナッテ愉快デタマラヌ。モシ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)。
(中略)
僕ハトテモ君ニ再会スルコトハ出来ヌト思ウ。万一出来タトシテモソノ時ハ話モ出来ナクナッテルデアロー。実ハ僕ハ生キテイルノガ苦シイノダ。
(中略)
書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉エ。」

この手紙は様々な本に引用されていて、僕も何度も読んではいたのだけれど、二人の十余年に渡るやり取りを読んだ最後にこれが来るともうたまらんですよ。

『漱石書簡集』




こちらは明治二二年から漱石の死の直前の大正五年まで、漱石が妻鏡子、子規、門下生などの友人知人、はては一読者への返事までと様々な人にあてた書簡。

留学中に鏡子とのやりとりというのは笑えないような笑ってしまうようなの不思議な味わいがある。
前に書いた岳父中根重一への手紙も収録されている。
「欧州今日文明の失敗は明らかに貧富の懸隔甚だしきに基因致候此不平均は幾多有為の人材を年々餓死せしめ凍死せしめ若しくは無教育に終わらしめ却つて平凡なる金持をして愚なる主張を実行せしめる傾なくやと存候」(明治三五年三月十五日)。
漱石は教育によって「平凡なるもの」には「分別生じ」、革命は遠ざけられ、「金持ども」も「利己一遍に流れず他のため人のために尽力」できるようになり、「今日失敗社会の寿命を幾分か長くできる」かもしれないとし、日本もまさにこうなろうとしているので教育が大切だとしている。

こちらでなんといっても目を引くのは門下生たちとのやり取り。
「神経衰弱」で苦しんでいた鈴木三重吉への励ましなんて、そりゃ弟子たちは漱石を神格化したくもなるわいというくらい暖かいものだ。

当時新参だった鈴木三重吉は漱石門下生の人物評を書き送ったようである。漱石は「寺田も四方太もまあ御推察の通の人物でしょう。松根はアレデ可愛らしい男ですよ」と返事を書いている(明治三九年十月二六日)。しかし三重吉は森田草平についてはだんまりだったようで、漱石は「君は森田のことだけは評して来ない。恐らく君に気に入らんのだろう」と三重吉の心を見抜いている。
しかし漱石は森田についてこうかばっている。「あの男は松根と正反対である。一挙一動人の批判を恐れている。僕はなるべくあの男を反対にしようしようと力めている。近頃は漸くの事あれだけにした。それでもまだあんなである。然るにああなるまでには深い原因がある。それで始めて逢った人からは妙だが、僕からはあれが極めて自然であって、しかも大に可愛そうである。僕が森田をあんなにした責任は勿論ない。しかしあれを少しでももっと鷹揚に無邪気に幸福にしてやりたいとのみ考えている。」

時代は下ってこれも有名な、芥川龍之介と久米正雄に宛てた「あせっては不可(いけま)せん。頭を悪くしては不可せん。根気ずくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げることを知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。(中略)牛は超然として押していくのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません」(大正五年八月二十四日)もある。
こんなの読まされた日には漱石門下生がどこまでもうらやましくあります。

それにひきかえといっては何だが、その門下生たちの微妙さ加減というのも浮かんでくる。
あれだけかわいがられていた森田草平は後ろ足で砂をかけていくようなことをするし、小宮豊隆は漱石の手紙での「候文」と「ですます」調との使い分けに対して、おそらくは被害妄想的な手紙を寄越し、「君は時々今いったような馬鹿々々しい所を露出する男のように思われます」(大正二年十一月二十五日)とあきれさせている。


ここに収録されていて一番好きなのはこれかも。
「あの『心』という小説のなかにある先生という人はもう死んでしまいました。名前はありますがあなたが覚えても役には立たない人です。あなたは小学の六年でよくあんなものをよみますね。あれは小供がよんでためになるものじゃありませんからおよしなさい。あなたは私の住所をだれに聞きましたか」(大正三年四月二十四日)

小学生からのファンレターに返事を書く漱石先生。確かに『心』はあまり小学生が読むものではないですよね。『心』の連載は四月二十日からなので、まだ読者は内容を知らなかったのでしょうが。そして住所バレも気になってしまいます。この返事を受け取った松尾寛一君はその後どんな人生を歩んだのでしょうか……


うむ、全集も読もうかな。



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佐藤太郎(仮)

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