『ダークナイト ライジング』

『ダークナイト ライジング』

若干ネタバレ気味のところもあるので未見の方はご注意を。

事前にあまり芳しくない批評(中には酷評に近いものも)を目にしていたせいで覚悟して見始めたのだけれど、「なんだよ、悪くないじゃん」と思った……のは前半だけで、中盤からしんどくなってそのまま挽回することなく終わってしまったように感じてしまった。


「ウォール街を占拠せよ」運動のスローガンの一つが「我々は99パーセント」だ。本作が公開されると、この作品は政治的に「1パーセント」の側に、つまり金持ちの側に立っているのではないかという声があがった。
こういう批判を聞くと「あ~、サヨクってほんとにやだね」と思う人もいるかもしれないが、この指摘はこのシリーズの核心をつくものかもしれない。

シリーズ前作ではジョーカーは銀行を襲い、ギャングどもをやり込め、文字通りのカネの山を灰にする。しかしそこには「貨幣」とは何か、「私有財産とは何か」という問いはあまり感じられなかった。
バットマンとジョーカーが象徴していたのは「正義」と「悪」であり、バットマンはジョーカーという存在によって「正義」とは何かという問題を突きつけられ、それは自らのアイデンティティをも揺さぶられるのであった。これは深遠なテーマであると受け止められたし、であるからこそあそこまでの評価を得ることができたのだろう。ただこの『ダークナイト ライジング』を見せられた後に考えると、哲学の素養のない人間による哲学談義のように思えなくもない。一見したところスケールの大きな問題を扱っているようで、実際にはその思考は穴だらけであり、決してラディカル(根源的/過激)な問いにまでたどり着くことはない。

脚本を書いたノーラン兄弟の政治的傾向は知らないが、『ダークナイト ライジング』に寄せられた政治的批判について、「そんなつもりではなかった」という心境なのかもしれない。おそらく「悪意」はなかったのだろう。しかし「自分はイデオロギーにとらわれていない」と思いこでいる人間こそが最もイデオロギー的なのである。

『ダークナイト ライジング』で、ブルース・ウェインは特殊な精神状態にあったとはいえ、自らの財団が孤児院への援助を打ち切っていたことに気がついていなかった。最終的にはこの孤児院にはウェインの個人的資産から援助が与えられる。これは恵まれない子どもたちにとって「ハッピーエンド」なのだろうか。

ロックフェラーやカーネギーなど19世紀に富を築いたアメリカの大富豪は慈善活動にも力を注いだ。現在でも様々な財団にその名を残している。同時にロックフェラーらは組合を弾圧し、労働者を劣悪な環境に置き続け、税金を憎み、福祉を否定していた。恵まれない人への援助はあくまで金持ちの慈善によって行うべきとし、税を通じての再分配を認めなかったのである。貧乏人が生きるも死ぬも金持ちの気分一つに左右される社会、それはとりわけアメリカでは、現在もティーパーティ運動に代表されるように根強い支持を集めている。
ウェイン財団の援助は個別的に見るならば「善意」であることは間違いないだろう。しかし、財団の資金繰りが行き詰ったらどうなるのだろうか。まさに本作にあったように援助は打ち切られ、貧しい子どもたちはむきだしの社会にさらされるのである。真に恵まれない子どもたちのことを考えるのなら、個人の慈善に頼るのではなく社会のシステムを変えねばならないのであるが、そのような視点はこの作品にはない。

そもそもバットマンというキャラクターは大富豪が法を踏み越えて(というか独自の規範によって)「秩序」を守る側に立つということを考えると、このような問いが生まれないほうが不思議にも思える。

別に『ダークナイト ライジング』が「政治的に正しくない」からよくないと言うつもりはない。映画にしろ小説にしろ、世界には政治的に正しくとも(いや、であるからこそ)救いようもなく退屈なものや、政治的に正しくなくとも(もちろん、そうであるからこそ)人を惹きつけてやまない作品などいくらでもある。
1980年代あたりから、アメコミのヒーローたちも最早「無邪気」でいられないという傾向が強くなった。その先鞭をつけたのが、ノーラン版が最も依拠しているフランク・ミラーによるバットマンである(とかえらそうに書いてしまったが、僕はアメコミには詳しくないものでネットで見かけたものの受け売りでありますが)。
「もう無邪気ではいられないアメコミのヒーロー」こそが売りであるはずのバットマンシリーズを作ったノーラン(兄弟)こそが、まさに「無邪気」であったのではないか(好意的に解釈すれば、ノブレス・オブリージュなど所詮は欺瞞で、その実態は単なるエゴイズムに過ぎず、金持ちどもは結局は出し抜いて甘い汁を吸い続けるんだ、というシニカルな視線の物語であるといえないことはないけれど)。

「デント法」とは、おそらくは(アメリカ)憲法に違反してでも「犯罪者」をぶち込んでおけという法律である。この法律によって閉じ込められていた「犯罪者」は「秩序」の破壊者であり、それに立ち向かうは勇壮な警官たち(!)なのである(「市民」が立ち上がるのではない)。これは政治的には『ダークナイト』から大きく後退しているばかりか、「反動」であるとすらいっていいだろう。

ノーランによると『ダークナイト ライジング』の脚本作りにはディケンズの『二都物語』にヒントを得たらしい。『二都物語』はずっと昔に一度読んだきりなので細かいところは忘れてしまっているが、あまりここからインスピレーションを得たようには思えなかったのだが、いずれにせよ後半の展開は明らかにフランス革命を下敷きにしている。
フランス革命時、民衆にとっては貴族たちは「人間ではない」と思えたのだろうし、その感情こそが粛清政治を用意したのだろう。そして貴族にとっては民衆とは得たいの知れない「怪物」に映っていたことだろう。つまりお互いがお互いを「人間ではない怪物」だと思っていたのであり、まさにこれはバットマンの世界観にはうってつけであったはずなのに、「秩序」の守り手と破壊者という「善」と「悪」の二項対立を、しかも「体制」の側から見て単純な色分けをしてしまっている。これを「無邪気」(あるいは「お目出度い」)と呼ばずしてなんであろうか。


……なんてことを言うと、「マスクをつけて暴れまわるおっさんの話に何熱くなってんだ。あそこはゴッサム・シティであってニューヨークじゃないんだよ」という反応をする人もいることだろう。ノーラン版バットマンの問題の本質とはまさにここにある。
否定的な意味で「漫画的」であることを避けようとすることによって(実際には『ダークナイト ライジング』は詰めの甘い突っこみどころだらけの脚本で、悪い意味で「漫画的」でもあるのだが)肯定的な意味での「漫画的」要素というものを希薄にしてしまっているように思えてしまうのである。

「貨幣」がどうとか「私有財産」がこうとか言ったが、別にバットマンを見に行くのにジョン・ロックやルソーやマルクスについての講釈など聞きたくはないという人がほとんどだろう。「政治性」を一種のマクガフィンとして使い、「なんとなくでっかい問題を扱っている気分」にさせることは悪くはない。しかしその代償として「漫画的快楽」を犠牲にしては元も子もないのではないか。
同じく大富豪が「ヒーロー」となるロバート・ダウニー・Jr主演の『アイアンマン』と比べてみよう。あの作品をしかめっ面をして、「うむ、やはり死の商人が国際政治に与える影響は……」なんてことを考えながら見ていた人がどれだけいただろうか。

うだうだと書いてしまったが、『ダークナイト』が絶賛されていた頃に誰かが「とりあえず『ビギンズ』を見て頭を冷やせ」みたいなことを言っていたが、『ダークナイト ライジング』というのはやはりヒース・レジャー演じるジョーカー抜きのノーラン版バットマン、つまり『ビギンズ』の延長なのである。雰囲気は重厚そうなのであるが、その割りに足元はおぼつかず、遠目で見るときれいに思えたのが少し近づくと粗いドット絵であり、それはそれでチャーミングなはずなのに必死にごまかそうとしてとんちんかんな化粧にはげんでいるような。

『ダークナイト ライジング』でとにかく残念でならないのは、アン・ハサウェイのキャットウーマンがばっちしはまっていたのに脚本の欠点をもモロに被ってしまっていることである(もっとも一番悲惨なのはやはりベインであって、負のトリックスターとも言え実存的な恐怖に人々を陥れたジョーカーと比べると、支離滅裂な筋肉バカにしか見えない)。キャットウーマンにもう少しだけでも峰不二子成分を加えていれば、作品全体の印象も大分変わったと思うのだけれど。

まぁノーランが辛いのは予告でテンション上がり過ぎちゃうことなんだよね。本編より面白いんじゃ……。嫌いなわけではないんだけれど、見終わってどうも釈然としない思いが残ってしまうのはいかにもノーランらしくもあるのかもしれませんが。









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