『文豪の翻訳力』

井上健著 『文豪の翻訳力』




タイトルを見ると語学的な観点から翻訳を採点、添削する誤訳指摘系の本を想像してしまうかもしれないが、本書は翻訳論でありまた作家論ともなっている。
日本の現代小説の出発点の一つが二葉亭四迷のツルゲーネフ翻訳であることを考えると、翻訳論が作家論に、作家論が翻訳論につながるというのは自然なことなのかもしれない。

昭和二年の『中央公論』の「作家の翻訳」特集から現在までの「作家翻訳」についての概観から、谷崎純一郎、芥川龍之介といった世代から池澤夏樹、村上春樹あたりまでの世代の個々の翻訳実践例が取り上げられている。池澤や村上はすでに若手どころか大物であるが、本書は九二年刊行の『作家の訳した世界の文学』の加筆補正版であるせいもあるのだろう(もっとも大幅な増補改定で「ほとんど別物の新著」になっているようだ)。もう一つ理由を探るなら、僕の個人的印象では近年の若手小説家はあまり翻訳を行うことがないように思え、そのせいもあるのかもしれない。これはこれで考えてみるべきテーマかもしれないが、ここでは扱われてはいない。


本書の中で大きく紙数が割かれているのが村上春樹である。春樹は創作と並行して数多くの翻訳を現在まで手がけ続けているということでは特異な作家である。同時に翻訳という手段を通じて外国(春樹の場合は主としてアメリカ)文学からの影響を血肉化するという点では本書で取り上げられている作家たちと共通するところもある。

デビュー間もなくからフィッツジェラルドらの翻訳を始めた村上は、それに関連してのインタビューなどで「小説とは人生そのもの」や「モラリティー」など「当時の村上春樹愛読者の多くを戸惑わせるに十分」な発言をしている。さらに『海』の八一年から八二年に連載された「同時代としてのアメリカ」(これは刊行を望む人が多いのだろうが、まず無理なんでしょうけど)と合わせて考えると、ここから「作家にとってのある種の方法意識が表明されていることが見えてくるのではなかろうか」という。


都市に生息する単独者としてのモラル、社会に向かう姿勢を「架空化」すること。「架空」のモラルを確固たる姿勢で生き抜くヒーローを仮構して、そこにリアリティを獲得していくこと。都市の経験にも消費文化にもリアリティは求めない。といって、都市に生息し、都市を呼吸する自己に、リアリティの根拠を設定するわけでもない。自己は、ヒーローは、あくまでも仮構された、虚構の自己にすぎないのである。そうしたリアリティや「経験主義」は、「私小説」的なものに回収することなどできるはずもない。あくまでも、寓話、物語を目指して、それを「総合」していくしかないのである。これが村上春樹がアメリカ文学を渉猟してわがものとし、『羊をめぐる冒険』に至るまで実践に移していった、アイロニカルでトリッキーな方法であり意匠であった。(p.94)


さらに具体的にフィッツジェラルドをどう訳していったかを見ながら、春樹がなぜヘミングウェイからフィッツジェラルドへ向かったのかが分析される。

”Big Two-hearted River”(In Our Times. 1925)にその一つの極地を見るヘミングウェイの短編においては、文は短く、それぞれに短い主語が先頭に立ち、be動詞をはじめとするシンプルな基本動詞がそれに続いて、簡素にして力強い単位を構成する。和辻哲郎あるいはオギュスタン・ベルクを引くまでもなく、日本語においては、主語・主体はしばし背後の関係性や雰囲気に解消されてしまって、それ自体として屹立することがなく、それゆえ省略可能なものとしてある。そこにヘミングウェイやカーヴァーの文体が日本語に乗せにくい最大の理由がある。be動詞の機能を、文脈の流れにゆるやかに浸潤させていこうとする村上の訳し方は、むしろ日本語の摂理に見合ったものと言えよう。だが村上はけっして主語の省略には向かわない。「架空」のモラルを確固たる姿勢で生き抜くヒーローを仮構して、そこにリアリズムを獲得していく上で、主語はどうしても欠かせないものであった。村上は、主語を拠点としてしっかり立てた上で、文と文、語と語の背後の関係性に目配りして、原文のリズムや流れを再現しようとするのである。(p.101)

長く引用してしまったが、本書がいかに翻訳論にして作家論、作家論にして翻訳論になっているかがおわかりいただけたかと思う。


村上春樹(四九年生まれ)関連で面白いと思えるのが、池澤夏樹(四五年生まれ)とのヴォネガット摂取体験についてである。同世代である二人は文学全集が家庭に常備されているのが当たり前の世代であり、思春期からとりたてて意識することもなく翻訳を通して世界の文学に触れてきた。
池澤は「本気で訳した」のはアップダイクの『クーデタ』とヴォネガットの『母なる夜』の二作だと語っているという。

そして「アップダイクの凝りに凝った文体を翻訳することで文章力はついてくる」とも言っている。
「もっと根源的、たとえば統語法です。シンタックス」について、「フォークナーはすごい」と語る。「ひたすら形容詞を積みあげて文章を構成してゆく。それはシンタックスの骨格が確かなものだからできる。日本語に訳す時は、あっちこっち入れかえてひっくり返すような、そういう苦しい文章になりますが、英語ならば一つのセンテンスを頭から読んでいって、ちゃんと分る。
 そのフォークナーに繋がる作家がアップダイクですね。そういうしっかりした文章構造と修飾の関係などをぼくはアップダイクに学びましたね」(引用は『池澤夏樹ロング・インタビュー 沖に向かって泳ぐ』から)。

ではヴォネガット翻訳体験は池澤にとってどのようなものだったのか。
「彼の小説で、やっぱり大切なのは思想だと思いますね。あの人の文体をそのままもらおうとは、ぼくは思わなかった。/むしろヴォネガットの文章は他の人たち、例えば村上春樹にとって親しいものだったのでしょう……」(引用は同書から)としている。

村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』がヴォネガットの強い影響下で書かれたことは一読すればすぐにわかる。
村上はかつてこう書いている。「カート・ヴォネガットについて何かを書くというのは、僕にとってわりにつらい作業である。(略)僕はブローディガンにもサリンジャーにもとりたてて精神的な借りはないから、べつに何かを書かなくちゃいけないという義理もない。(略)それに比べてヴォネガットに関しては僕はどこかで個人的なケリをつけなくちゃならないだろうと思っている。」(引用は『吾が魂のイロニー カート・ヴォネガットJr.の研究読本』から)

しかし著者は、伊藤典夫、飛田茂雄、浅倉久志らの「ヴォネガットの訳文と、『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』の文章との間には、後藤明生の言う「修辞的」な意味での共通点は、意外なほど見つけにくいのである」としている(p.85)。これは池澤によるヴォネガットの「文章」が村上に「親しいもの」であったという見方とは異なるということなのかもしれない。

「村上春樹が、後藤明生の言う「文体的」な意味において、ヴォネガットなど、アメリカ作家の影響を強く受けたことは事実であるにしても、「修辞的」レベルの文体に関しては、その依って来るところを割り出すには、翻訳外国文学全般に、さらに広く目配りする必要があるように思われる」(p.86)。ここで鍵となるかもしれないのが世界文学全集である。村上はかつてエッセイで、十代のころ毎月家に届けられる世界文学全集を読みふけっていたということを書いていたように記憶している。ご存知の通り池澤は個人編集の世界文学全集を刊行することになるが、それは世界文学全集という形式への偏愛のなせる業だろう。。池澤は村上をあまり評価していない(というより、ある時期以降の作品についてはかなり批判的である)のだが、少なくともその出発点においては似た位置にいたと言えるのかもしれない。
そういえば池澤はギリシアに住んでいたことがあり、アンゲロプロス作品の字幕も手がけていたが(本書でもその字幕翻訳経験と小説翻訳経験についての比較がある)、村上も八十年代後半ギリシアに長期滞在したけど(そのころの生活はエッセイ『遠い太鼓』で描かれている)、まさかこれって池澤夏樹の影響だったのでは……ということではたぶんないと思うが、こういうのを読んでいると、いやひょっとしてとも思えてきてしまう。

僕は不勉強なことに後藤明生は全然読んでいないもので、著者がここで(いささか唐突に)出してきた「文体的」「修辞的」というのがどういったものを指すのかよくわからないのだが、村上春樹についてさらにこう続けている。
「初期村上春樹の文体が庄司薫の事例と同じく、その清新な語り口調で現代散文に新風を吹き込んだのは事実であるにしても、それを新たなる口語体、言文一致体とまで崇め立てるのは、少なくとも地の文に関しては当たらないと言うべきだろう。それはアメリカ小説風の軽やかな風通しの良さと適度な粘りをもった、きわめて人工的に設えられた書き言葉であった」(p.86)。

そして『群像』新人文学書の丸谷才一の選評を「瞠目すべき」とし、それを受けてこうまとめている。「丸谷才一の選評は、ヴォネガットやブローティガンの「作風」はよく学んでいるとしながらも、それを村上の文体の問題には結びつけていない、アメリカ小説風の意匠を有しながらもその叙情の本質が日本的であると看破している、村上春樹の登場の背景に一九七〇年代末からの趣味の変革があると想定している、の三点において、まさしく正鵠を得たものと言わねばならない」(p.87)。

ここについては全面的には同意しかねる人もいるかと思うが(というか僕がそうなのだが)、それでも一つの説得力のある分析であるとも思う。


そういえば本書を読みながらふと思ったのだけれど、何箇所か言及のある大江健三郎はフランス語と英語が読めて、世界文学の大いなる摂取者でもあるけれど、確か翻訳は行っていないのですよね。これはこれでまた別の面から注目できるのかもしれない。大江の場合は翻訳を通して世界文学の血肉化を行うのではなく、自身の小説の中に直接取り込んでいって、その結果としてどんどん文章が奇怪なものになっていってるのだけれど、これは村上春樹の対極と言えるのか、それとも意外と近い所にいると言えるのだろうか。




プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR