『ティーパーティ運動の研究』

久保文明+東京財団「現代アメリカ」プロジェクト編著 『ティーパーティ運動の研究 アメリカ保守主義の変容』




久保文明による「はじめに」では、ティーパーティ運動の名前の由来が1773年の「ボストン茶会事件」であると同時に「Taxed Enough Already」(もう税金はたくさんだ)という意味もこめられているとする意見があることが紹介されている。ここからも端的にわかるように、ティーパーティ運動が基本的には反税金運動であることは明らかであろう。しかし同時に、その特徴がどこにあるのかという点では意外と掴みにくいところもある。本書に収録されている10の論文を読むとその姿はある程度浮かび上がってくる。

石川葉菜は各種世論調査の数字の比較検討を行っている。これによるとティーパーティは一般にイメージされるような「ポピュリズム」や「反エスタブリッシュメント」というだけでは捉えきることができないようだ。
その大きな理由が、ティーパーティ運動が「一つのまとまった運動ではなく、ローカル・レベルの運動の集合であるという特徴」にある。

他の論考と合わせて最大公約数を求めるなら、それは「反「大きな政府」」というこになろうが、そこには当然矛盾する主張が含まれることになる。
渡辺将人はその中でロンとランドのポール親子を中心としたリバタリアンを中心に「分裂要因」について考察している。
「ティーパーティにおける元祖的な存在を自称するポール派のティーパーティ運動は、その起源を「反オバマ」「反民主党」ではなく、「反ブッシュ政権」「反共和党」に置いていることに特質がある」という。これは世論調査でもティーパーティ支持者に相当数の無党派が含まれていることからもうかがえる。

しかし「元祖」であるから主流派であるかといえばそうではなく、とりわけサラ・ペイリンらに象徴される宗教右派や社会保守とは考えに相当差がある。ロン・ポール自身はプロライフ派であるが、それはあくまで州が判断すべきという立場であり、同性婚についても同様である。しかし社会保守は憲法によって中絶や同性婚を禁止すべきだという考えが多く、ここには埋めがたい溝があるように映る。


宮田智之は『ニューヨーカー』誌のこの記事によってリベラル派から「ティーパーティ運動を操る黒幕」と攻撃をされることになる大富豪のコーク兄弟を取り上げている。コーク兄弟がティーパーティ運動の黒幕か否かはさておいても、アメリカにおいて大富豪が政治に与える影響という点で注目できる。このような大富豪にとっては、自らの利益もさることながら「大きな政府」との対決は思想戦であり、ゆえに莫大な資金をつぎ込むことになる。


また梅川健は「経済保守と社会保守の連結の試み」としての「憲法保守」について考察している。
「ティーパーティ運動を牽引してきた団体には、経済保守と社会保守という二つの側面があったが、従来、この二つの保守派は、原理的には相容れないことが指摘されてきた。すなわち、経済保守が政府の介入を嫌うのに対して、社会保守は、モラルや価値観に対して政府が介入すべきだと考えるためである」。この「両者をつなぎ合わせる性質をもって」いるものこそ、「憲法保守という概念」である。

ピーター・バーコウィッツは2009年に「憲法保守」というペーパーを発表した。そこには「共和党が今後とるべき戦略は、共和党の基本的な支持基盤である社会保守と、オバマ政権にうんざりしている経済保守とを結びつけることだ」と提言しているのだという。
そしてフランク・メイヤーを引用し、「社会保守と経済保守は、お互いがなくては成り立たないという関係にあると主張する。家族やコミュニティが自律的な個人を形成するという社会保守の考え方は、市場における自律した個人という、経済保守がよって立つ前提を提供する。同様に、小さな政府や個人の自由の重視という経済保守の考え方は、社会保守のい対して、家族やコミュニティが道徳を教えることができるのは、政府が制限されている場合の限るのだということを思い起こさせる」。
このような考えは60年代には「融合主義」と呼ばれていたが、これをバーコウィッツは「憲法保守という新しい名前を与えた」のである。そして「共和党エスタブリッシュメントによるティーパーティ運動の取り込みの試みである「マウント・ヴァーノン宣言」のなかで、ほとんど同じ意味で用いられる」ことになる。


それにしても、「ティーパーティ運動の参加者は、ポケットサイズの憲法をみにつけて集会に参加し、「憲法保守」と呼ばれる候補者を支持した」なんてのはどこか毛沢東語録を掲げた紅衛兵を連想してしまう。
「マウント・ヴァーノン宣言の骨子は、保守主義を、アメリカ建国の理念に結びつけることであった」そうだが、デラウェア州の上院選挙の予備選に勝利したクリスティン・オドネルは「憲法が単なる法的文書ではなく、「神聖な原則」を定めた文書だと述べた」のだという。オドネルはさらにこう言った。「ティーパーティは、イスラエルの選ばれた民のように、アメリカ版の『旧約聖書』を発見した」。
アメリカ建国を旧約聖書に重ねるというのはアメリカの神懸り系の人によく見られる現象だが、それにしてもという感じである。


ランド・ポールは「憲法保守という考え方によって、「保守とリバタリアンとを結びつける」ことが可能だと考えており、「それこそ、私の選挙戦の中心である」と述べている」そうだ。個人的にはこれは欺瞞以外には見えない。
ポール派は国防も聖域化せず、またブッシュによるイラク戦争もオバマによるアフガン戦争の継続にも真っ向から反対しているためリベラル系の人からも一目置かれることも多い。
リバタリアンは思想的には究極の原理主義といってもいいのだろうが、ポール親子は財政均衡を強硬に求める経済保守という点では原理主義的であっても、社会保守との間ではかなり妥協的であるように映る。「リバタリアンと保守を結びつける」ものとは単なる党派性にすぎないように思える。ポール派は確かに部分的に取り上げると一本筋が通っているように見えなくもないのだが、全体を俯瞰するとまた別の姿が浮かび上がってくるようだ、
少し脱線気味になるが、ポール派やティーパーティはFRBの廃止や金本位制への回帰のような素人目にもとんでもない方向へ向かっていて、それが共和党全体の政策にも影響を与えているのだが、にもかかわらず少なからぬ高名な経済学者はそれでも共和党を支持し続けている。ここらへんも党派性ということ以外では説明がつかないのではないだろうか。もちろん政策的一貫性よりも党派性を優先させるというのは右派に限ったことではないのだが。


本書全体の感想としては、ティーパーティ運動とは何かを概観することは十分にできるとは思う。ただ重複する点がいくつかある一方で、もっと掘り下げられるテーマもあったのではないかとも思うと少々おしいかなというところもある。
アメリカにおける「保守」はそれこそジェファーソン対ハミルトンの頃からの州対連邦が根っこにあるわけで、そのようなアメリカ史的な面からのアプローチを中心にした論考もあってよかったのではないかと思う。また軽く触れられているアイン・ランドはアメリカ独特の右派思想(というかなんというか)の源流の一つで、ティーパーティ運動や共和党全体の思想性を考えるうえでもキーになる存在であろうし、その受容史のようなものもあればより見通しはよくなったかもしれない。


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佐藤太郎(仮)

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