『ヒトラー独裁下のジャーナリストたち』

ノルベルト・フライ  ヨハネス・シュミッツ著 『ヒトラー独裁下のジャーナリストたち』




本書はナチスが政権についた1933年から戦後までを取り扱っているが、訳者の五十嵐智友の解説によると、当時のドイツのジャーナリズムについて取り上げた著作はそう多くはないのだという。それは1933年段階で、新聞だけでも3400紙、ジャーナリストの数も1万数千人に及ぶことから一律に論じることが困難であるという事情もあるそうだ。

このような乱立状況では当然ながら全ての新聞が高い質であることは有り得ず、とりわけ地方紙などは首都の政治記事などを配信に頼らざるを得なかった。そのためニュース配信会社や映画会社のウーファを含む巨大な右派メディアグループを築いたフーゲンベルクは大きな政治的影響力を持ち、1928年には自ら国家人民党の党首につくと反ワイマール共和国キャンペーンを展開する。
つまりドイツは、ナチスが政権を握る前にすでにその独裁の地ならしがなされていたという面も持っていたのである。

では当のジャーナリストたちの反応はどうであったのだろうか。これも解説に、「ナチズムの歴史は過小評価の歴史」という言葉が使われている。
1933年の正月になってもまだ、リベラル系の『フランクフルト新聞』は「民主主義国家に対する国家社会主義の無法な攻撃は撃退された」と楽観論を振りまいていた。

ついにヒトラーが首相の座につくと、『ファス新聞』は「権力はこの世から貧困を廃絶することはできないかもしれないが、自由を廃絶することならできる」とナチ独裁脅威論を改めて主張した。
そして『ベルリン日刊新聞』は「言論の自由についていえば――国家社会主義者たちはこの言論の自由の有難味をこれまでたっぷり味わってきたのだが――ことのほか過酷な環境に置かれるであろうことは間違いない。ナチ体制化では、今後に期待できるはずがない。そもそも、新しい政治体制を歓迎するとか、しないとかといった言論の自由を展開することは最早許されないだろう」という社説を掲載する。

しかしリベラル・左派系の新聞でナチと対決姿勢を貫いたのはごく一部であった。国家社会主義に反対する立場をとっていたはずの『フランクフルト新聞』は32年にはナチスを体制内に取り込むことで責任を持たせ、懐柔しようという「ナチ党飼い馴らし構想」を支持するようになっていた。また「ナチ党を政権に参加させれば、たちまち無能ぶりを露呈して、次の選挙ではナチ党のイメージも台無しになるはず」という希望的観測もあった。これまでの楽観論から一転するのはようやく33年1月末になってからのことで、2月1日には次のような記事が掲載される。「われわれは、ナチ党の政策なるものは所詮、素人の思いつきと激情とが渾然一体になったものにすぎない、とみる。かかる政党にドイツの未来を託すことは、許されることではない」。
しかし結局は、他のリベラル派の新聞と同様ナチに追随する道を選ぶことになる。

一方の保守系の新聞はすでに右傾化が相当に進行しており、ヒトラー政権を歓迎する論調が多くみられた。「ブルジョア・保守系の名門紙」も例外ではなかった。
『ミュンヘン最新報』は1月30日にこのような主張を掲載した。「(ナチ党が)国内の敵対関係を黙過する時間的余裕はもはやないと考え、非生産的かつ国民のだれも望んでいない論争に終止符を打ったのは、誠に時宜を得たことといえる。……これまでは権力をめぐる指導者不在の陰謀がうんざりするほど長い間、舞台裏で演じられて来たために、国民はいいたいことを我慢し、未来について語ろうともしなかった。だが、これからは本心をはばかることなく語るだろう。今回の変革が持続するであろうこと、使命感を持った偉人が新時代を担う人々を、狭量で無知な政党政治と敵対者の中から救い出し、新しき世界へ誘導してくれるであろうことを」

事態を憂慮する声もあったが、「大勢を占めていたのはヒトラー政権内部でやがて矛盾が吹き出して、彼らの「実験」もたちまち失敗に帰するだろう、といった楽観論」であり、「ブルジョア・保守派のジャーナリストに根強く支持されていたのは、ヒトラー内閣に送り込まれた右翼・保守派の閣僚たちが、じきにナチスの「飼い馴らし」に成功して、無害化してくれるだろう、という見方だった」のである。

ナチスが政権を握るとすぐに「虚偽報道」の禁止も可能な大統領緊急令は布告される。なにをもって「虚偽」とするかを決めるのはナチ党員の内相フリックであり、これで事実上「ナチ党が言論の生殺与奪の権限を完全に手中にした」ことになる。
そして後にノーベル平和賞を受賞することになるカール・フォン・オシエツキーのように収容所送りになったり(オシエツキーは38年に拘留中に死亡)、2000人のジャーナリストが亡命することになる。
さらに突撃隊を用いて左翼紙の印刷所や社屋を強制収用し、左翼メディアを壊滅状態に追い込む。そして乱立していたメディアを経営合理化などを名目に掌中に収めていくが、経営に苦しんでいた新聞・出版業界の中にはこれを歓迎する空気もあった。


またナチ側では、ゲッペルスは新聞が画一的になるのを嫌がり、またある程度批判的な雑誌の存在も黙認していた。これは読者にとってプロパガンダ臭が強くなりすぎるのを嫌うと同時に、ガス抜きでもあり、また潜在的反体制者をあぶり出すという戦略でもあった。
ナチのプロパガンダといえば、あらゆるメディアを駆使して国民を巧みにコントロールしたというイメージがあるが、実はラジオやニュース映画ではそのあまりにしらじらしい構成に冷めていた人も多かったようでもある。これらの新興メディアをうまく使いこなせていたわけでは必ずしもなかったようだ。

ナチ支配下では、あらゆるメディアがコントロール下に置かれていたことは間違いないが、その程度がどこまでであったのかは微妙な問題でもある。
このような状況にあっても「行間の抵抗」、つまりそれとはわからぬ形で検閲をかいくぐり、批判的なトーンの記事を書いていたジャーナリストの存在がある。そのような「抵抗」を行っていた人たちは確かにいたものの、著者はその存在は近年過大評価されがちであるとしている。

戦後、ナチにコミットしていた報道関係者は追放され、新聞は免許制となる。ドイツは米英仏ソに共同管理されるが、とりわけ厳しかったのはアメリカであった。しかし英仏の審査はさほど厳格ではなく、そして訪れる反共の高まりによってナチ時代のジャーナリストは次々に一線に復帰することになる。過去を棚上げしようという空気が支配的となり、あるいは英雄的な過去を事後に作り出した者もいた。

この時代の雰囲気を著者はこう表している。
「ジャーナリストとして、ドイツの新しい国家・社会秩序の建設に肩入れしようと考えたのである。自らを民主主義と一体化させ、今度こそは正しいやり方で成しとげようという、いささか過熱気味なほどの強烈な意欲を持っていた。そこで、そうしたジャーナリストたちはまず、過去の「褐色の亡霊」、すなわち呪うべきヒトラーと、その犯罪を断罪する記事を書いた。ただし、ここでいう犯罪とはヒトラーおよび若干の狂信的ナチスによるものと限定されていた。このことは、ドイツ人全体の共同責任を追及する声をかわすためには重要な意味を持っていた。そのえ、成長途上にある民主主義を守るため、強力で責任感を持った介添人の役目を喜んで引き受ける用意がある、と得々と弁じたてた」(p.298)。

著者たちはおそらくは左派的な政治見解を持っており、「批判精神」を社会民主党に向けこそすれアデナウアー政権には向けないこのような記者に対して辛辣である。しかしアデナウアーに取り入り、50年代にはついに連邦新聞情報庁や外務省(ナチ時代の外交官が堂々と復帰していた)などで、「ヒトラー体制に筆の力を貸した(元)ジャーナリストが高官に起用された」という事例を見ると、これを政治的バイアスとして片付けることはできないだろう。

50年代から60年代にかけて、ジャーナリストの責任を追及しようという動きがあったものの、大きなインパクトを与えることはなかった。ナチ党の週刊誌に協力をした過去を名指しされても、一部を除けば沈黙するのみであった。「ジャーナリズム界には「ドイツ民主主義が安定したことはこれまでに立証された」という自信が芽生えていたところに、もともと底流にあった道徳不感症が首をもたげてきたため、現実主義万能の風潮が急速に広がっていたのである」。

「もし、いうところの現実主義がジャーナリズムの一つの特性だとするならば、あるいは現実に対する柔軟さと冷静さ――もっと突き放した言い方をすれば、日和見主義と冷笑主義――がジャーナリズムの基本的特性だとすれば、以上に見てきたような状況も別に驚くに当たらないだろう」(p.307)。


原著は89年、訳書は96年の刊行だが、今でもというより今こそ読まれるべきというのが、日本の政治及びメディアの現状のような気がしてしまう。
プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR