『全貌フレデリック・ワイズマン』

土本典昭 + 鈴木一誌編 『全貌フレデリック・ワイズマン』






本書はワイズマンへのロングインタビュー(質、量ともにこれだけで一冊にしてもいいくらいである)、多彩な論者による様々な角度からの分析、そして各作品の「場面の展開」と「解説」からなっており、まさにワイズマンの「全貌」が明らかにされる……のだが、先に不勉強を告白しておくと僕はワイズマンの作品を一本も見たことがない。「有名なドキュメンタリーの監督」という程度にしか認識していなかったのだが、そういう人間でも本書だけを通してでも(こういうのは邪道もいいところなのだろうけど)その巨大さに少しは触れることができたように思えた。


ワイズマン作品の最大の特徴が、「ナレーション、説明テロップ、音楽が存在しない」、「四無い主義」とも称される手法である。
ワイズマンの作品を見ると何かを語らずにはいられない、本書を読んでいるとそんな衝動にかられる人が多いことがわかる。観客はワイズマンに、あとは食べるだけという料理を提供されるというよりは、素材を目の前につきつけられているように感じられるのかもしれない。消化するためには自らの手でその素材をさばかなくてはならないのである。

土本典昭、久保田幸雄、大津幸四郎の三氏による鼎談が収録されているが、その中で土本は『少年裁判』について、「いちばんワイズマンらしさを見て、感動しました」と述べている(p.352)。「撮る側が、最後に登場する少年の立場に完全に立っている。少年を理解し、弁護している立場の映像にしか見えない。(中略)あの映画のなかにはいくつかケースがあったけれど、この少年のケースは、もと弁護士としてのワイズマンの、生来の気質の現れたシーンではないかと思いました」。

おそらく多くの人が同様の感想を抱くのだろう。自身も映画監督である船橋淳はロングインタビューにて、「あなたは珍しく、少年の側に立つようなキャメラ・ポジションを選んでいるのではないでしょうか」と質問している。
しかしワイズマンの返答はそっけないものである。「なぜわたしが少年の側に立っていると判断できる。どんな証拠があるのか」(p.68)。
そして「キャメラの視線に、被写体=少年に対する愛情を感じます」と船橋が答えるとこう返す。「それはあなたの主観の投影にすぎない。わたし自身の考えは映画に表現されている」。
船橋はなおも「数ある作品のなかで、あなたはつねにニュートラルな視点から観察を続けてきました。しかし、ときおりそのバランスが、五〇対五〇から五五対四五にシフトする瞬間があるのでは」と食い下がる。しかしワイズマンはこう言ってのける。「わたしの映画が五〇対五〇だった試しはない。そんな観点で考えたこともない」。

映画に限らず作り手が自身の作品の意図を説明するべきかどうかについては、一般的には禁欲的であるべきだという意見が多いだろう。「正解」を用意してしまうことによって作品の可能性を狭めることになってしまうためである。それにしてもワイズマンの態度はこのインタビュー中徹底されており、その禁欲ぶりはいささか極端であるようにも映る。

ではワイズマンは一貫してこのような姿勢を貫いてきたのだろうか。実は各作品の「解説」を読むと、過去のインタビューなどで、自身の意見を明かしているものがあることがわかる。
例えば『高校』(1968年)のある場面について、70年のインタビューで、「ノースイースト高校とゼネラル・モータース工場のベルトコンベアーの類似性を挙げ、高校が資本家だとするなら、部品を組み込まれて大量生産される車のように「批判精神のない、考えることをしない、ただ権威を受け入れるだけ」の生徒を製造していく施設だと語った」(p.417)そうである。

キャリアを重ねるにつれ考え方が変わることもあれば、置かれている状況も変化する。地位を固める前にはインタビューでは「わかりやすい答え」を提示することが避けられなかったのかもしれない。
しかしワイズマンの場合には異なるのではないかという気もする。本書でのインタビューは、訳のせいもあるのかもしれないが少々ギスギスしたようなやり取りも見られる。これはインタビュイーとインタビュアーが噛み合っていないというよりは、ワイズマンが船橋(そして読者)を挑発しているようにも見えてくる。あえて同意を与えないことによって、お前は何を考えているんだ、どう感じたんだと問いかけてくるかのように。これこそまさに、ワイズマンの映画を見終わったあとの感情に近いものなのかもしれない。


ワイズマン(の作品)は素材をそのまま突きつけてくるかのようだ。しかしこうも考えられる。畑から抜いたばかりの土のついた人参は「新鮮」ではあっても「自然」ではない。
「ドキュメンタリー映画監督」というと、つい技術的なことは二の次で熱い情熱によって作品を作り上げるというような姿を想像してしまいがちである。しかしワイズマンの場合、その作品を魅力的にしているのは間違いなく彼の卓越した編集テクニックにあるのだろう。

殊能将之は「ミステリ映画としての『少年裁判』」という論考において、「モジュラー型警察小説」や、あるいは「事実を題材にし、綿密に取材をおこないながら、あくまで小説として書かれた作品」である、カポーティの『冷血』に代表される「ノンフィクション・ノヴェル」を想起している。またその逆の例として、「虚構に基づくルポルタージュ」である宮部みゆきの『理由』と、その映画化である大林宣彦監督による同名作品も挙げ、「小説や映画において、事実と虚構の境界線はきわめてあいまいであり、すぐれた作家はルポルタージュと小説を、あるいはドキュメンタリーと劇映画をたやすく行き来することができる」(p.223)としている。
言うまでもなく、これは別にワイズマンがやらせをしているだとか、「事件」に介入しているというのではない(その点でいえば、ワイズマンは間違いなく、過剰なほど禁欲的であろう)。
凡百なドキュメンタリー監督が同じテーマで取材を行ったとすれば、「かわいそうな少年たち」か、「ロクでもないガキども」か、いずれにせよはっきりとした、誰からもその「メッセージ性」が疑われない作品になったのかもしれない。いずれにせよこのようなプロパガンダ臭こそがワイズマンが最も忌むものである。
そこらへんの畑の人参を適当に抜いてきて、ほらよっと目の前に投げ出すような単純なことをしているのではない。


ワイズマンには軍をテーマにした作品がいくつもある。ワイズマンは無許可撮影や突撃取材、隠し撮りといった手法は用いない。全て正式に許可を取り、被写体となる人々からも同意を取り付けている。もちろん軍からも例外ではない。
ワイズマンはアメリカが「開かれた社会制度をもっている」国であり、アメリカのジャーナリストや映画製作者は政府の活動にアクセスできる」としている(もっとも「今のブッシュ政権は例外だが」ということである)。
ワイズマンは軍隊ものの第一作である『基礎訓練』を撮るための許可を得るために過去の作品をある大佐に見せたところ、「ジョン・チーヴァーの短編を思い起こさせるよ」と評価され、許可がおりたのだという(p.87)。もちろん軍にも、とりわけ高級将校ともなれば文化的にも洗練されたインテリがいることも確かだろう。その後もこの大佐から許可を得続けることになったようだが、しかし『基礎訓練』以降、軍がワイズマンを自分たちに批判的的立場であると見なしていたとしたら、はたしてその後の作品の許可はすんなりおりたのだろうかという疑問はわく。
本書でも一連の軍を扱った作品の論考があるが、その多くがそこにワイズマンの批判精神やシニカルな視線を読み取っている。しかしこれも、「主観の投影」にすぎないのかもしれない。

そして『霊長類』完成後に、被写体となった人々から抗議が寄せられたことについてワイズマンは、「対象である研究所側からの抗議は、彼らが見た試写のあとでなく、テレビ放映後に各所で賛否が論じられてから初めて公に発表されたもの」であると不満を述べているのだという(p.441)。これはワイズマンのデビュー作であり、また長きに渡り上映禁止となった「精神異常犯罪者を対象とする州立刑務所矯正院」を扱った『チチカット・フォーリーズ』などでも同様であった。つまり、作品自体に対して怒りにかられたというより、作品を見た人の反応を知ることによって怒りにかられたということだ。
完成された作品を軍関係者が見てもそう印象は悪くなかったのかもしれない。「主観の投影」によって、我々はそこに見たいものだけを見ているのだろうか。


このような、観客の多様な反応を引き出す作品というのは作り手にとっても、また受けてにとっても魅力的なものとなる。
クリス・フジワラは「『パブリック・ハウジング』――内と外」にて、ガス・ヴァン・サント監督の『エレファント』が公開された際に、多くの批評家がワイズマンの『高校』を思い浮かべたことを取り上げている。
「このワイズマンへの言及は、『エレファント』が物語映画でありながらも、ワイズマンの映画についてよくそう考えていられているところの、脚色されていない、ありのままの現実の記録のように見なされていることの現われであるように思えます。ワイズマン自身は、自分の映画は製作過程で得た経験を反映したものであり、そういう意味ではドキュメンタリーよりも劇映画に近いと常づね主張しているにもかかわらず」(pp.238-239)。
引用の後半からもわかるように、フジワラは『エレファント』と『高校』が関連づけられるのは、「これら二作が似ているからではなく、非常に異なるものであるからだ」という観点で論を進めていく。
『エレファント』を『高校』に重ね合わせた批評家が的を射ているのか外しているのかは『高校』を未見である僕には判断のしようがないが、少なくともワイズマンに言及したいという欲求に少なからぬ人がかられたことは間違いない。

ガス・ヴァン・サントがワイズマンを参考にしたのかどうかはわからないが、意識的に取り上げた監督もいた。それはスタンリー・キューブリックである。
ワイズマンはこう振り返っている。「キューブリックは『フルメタル・ジャケット』を撮るために『基礎訓練』のプリントを借りていった。あの映画の前半は、ほとんど『基礎訓練』の場面を一ショットごとに忠実に複製したもの(duplication)だ。キューブリックからプリントを取り返すのには一年かかった」とのことである(p.53)。
こういうのを読むと、『フルメタル・ジャケット』の狂気じみた「リアリティ」というのも納得である。


『視覚障害者』を取り上げた佐々木正人の「フレデリック・ワイズマンの視覚」は、個人的には「ワイズマンらしさ」がもっとも喚起される論考のように感じられた。
盲学校を取材したこの作品にはこんな場面がある。小学生(写真を見るとおそらく低学年)のジェイソン君は、算数のドリルがよくできたために「一階(の先生)に見せに行く。ひとりで行く」と言って歩き出す。ジェイソン君は階段を降りたところで教師と出会い、「すごいわジェイソン。答案を持っているの」と声をかけられる。「どこに行くの」と訊かれると「ウィリアム先生のところ」と答え、また歩き出す。一階の部屋につくと入り口のそばにいた教師にハグされ、「すごいわ」「足し算と引き算ではじめてAをもらったのよ」という言葉をもらう。奥にいたウィリアム先生も「すごい、とてもうれしいわ」と声をかける。報告が終わると、ジェイソン君はまた一人二階の教室へと戻っていく。そこでまた教師から「ジェイソン独りで歩けたの、うれしいわ」と言われ、ジェイソン君は答案を棚に戻す。ジェイソン君の移動を四分五〇秒に渡ってほぼワンショットで追っている(インタビューによれば一箇所カットが割ってあるそうだ)。

これを障害を持つ子どもの冒険と努力のたまものという感動の場面として受け取ることもできる(僕は場面説明と写真だけでぐっときてしまった)。もちろんそうではあるのだが、注意して見るとまた別の光景も浮かんでくるようだ。
佐々木がここで注目しているのはジェイソン君の動き、「移動」である。廊下を移動する際、壁に手を触れていることもあれば手をかざしてその存在を確かめているだけのときもある。一階の部屋から出るときは、何にも触れることはない。階段へ向かう途中は廊下の真ん中を歩き、階段を昇る前に手すりに手をのばし、手すりを持って登る。ここでは予期的な動きをしている。二階の廊下にある柱も予期的に手を伸ばして迂回する。そして部屋へ戻る際は、廊下の端からではなく真ん中から直接アプローチしている。

ジェイソン君はただ学校の構造を記憶しているだけなのだろうか。ジェイソン君以外にも、ワイズマンは「移動」を執拗に追う。
「ワイズマンの『視覚障害者』で、盲人たちは、意識のモードを変えつつある。彼らは、意識の新しい相を探る特別な移動者として画面に登場している。移動のモードが、光から、光以外の周囲へ移行するとき、視覚障害者は、特別な環境の肌理を使い始める。環境についての新しい予期の仕方を動きに獲得する。ワイズマンのカメラが執拗に追っているのはそこである」(p.230)。

もし僕がアイマスクをして一日を過ごしたら、そのことによって視覚障害者と同じ「世界」を体験したといえるのだろうか。それはあくまで疑似体験に留まるものであろう。
これは「健常者」と「障害者」の間の埋めがたい「世界」の成り立ちの認識の断絶を意味するのではない。僕が見ているこの「世界」が、あなたの見ている、聞いている、感じている「世界」と同じであるということができるのだろうか。障害の有無に関係なく、他人が「世界」をどう感じているのかを共有することができるのだろうか。ここに、それでも「世界」は成立しているという奇跡を見出すこともできるし、あるいはゆえに「世界」は失調しているという不安が湧いてくることもある。
ジェイソン君の足取りに僕の心が揺さぶられたのは、そこに「奇跡」や「不安」を見出していたからなのかもしれないし、「世界」はただそこにあるだけなのであって、そのような心の揺れは自らの「主観の投影」であるに過ぎないということなのかもしれない。

……なんて感じに現象学的妄想とでもいおうか、よくわからない方向に思考がねじれながら読み進んでいたら、「聾・盲シリーズ」の「解説」にて、ゴダールは『映画史』の「4B」で「ジェイソン少年の旅路のシークェンス」を引用しているとのことである。むむ、やはりゴダールとはどこかで通じ合っているのか、なんて気になっちゃったりして(これこそ「主観の投影」か)。


とにかく、ワイズマン、及びその作品に触れると何か語らずにはいられなくなるということは間違いないのだろう。何せまだ一本も見ていない僕ですらこんなに長々と語られずにはいられなくなってしまったのだから。





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佐藤太郎(仮)

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