『中国が読んだ現代思想』

王前著 『中国が読んだ現代思想  サルトルからデリダ、シュミット、ロールズまで』





タイトルにあるように中国においていわゆる「現代思想」がいかに読まれているかを扱っている。
中国の言論状況というと中国人が書いたものへの検閲や弾圧に目がいきがちであるが、外国の思想はどのように摂取されているのだろうか。

「プロローグ」にあるように、1949年以降は「マルキシズムが国家のイデオロギーとして指導的な地位を占め」、その他の思想は「基本的には反動的なブルジョワ・イデオロギーとしてしか見なされていなかった」。
それが極度に高まり異様な形をとったのが文化大革命であった。当時は「知識が多ければ多いほど反動的」と見なされ、知識人は「下放」されることになる。そんな最中にも『純粋理性批判』の上に『毛沢東選集』を置いて「擬装工作」をしながらカントの研究にいそしんでいた人もいた。しかし、実はこの間も外国思想の研究が閉ざされたわけではなく、「デビューした直後の若きデリダのヘーゲル哲学を脱構築した論文も鎖国時代の中国に紹介された」という「俄かには信じがたい事実」もあったのだという。

「現代思想」という観点から見ると、1979年にニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックスなどを範に創刊された『読書』という雑誌の存在がエポックになっているようだ。創刊号には「読書無禁区」(読書に禁止エリアなし)というエッセーが載せられ、衝撃を与えたそうである。

日本から見ると中国の西洋思想の輸入についていささかの既視感を憶えるかもしれない。1980年代前半には「ヒューマニズムがいちばん強く共鳴された思潮」であり、広く読まれたのはサルトルであった。これ以降の西洋思想の摂取は、1950年代以降あたりからの日本のそれと重なるところが大きいようにも思える。ここらへんは中国と日本がとりわけ類似しているというより、後発で「近代化」を目指す国にとって一度は通る道ということなのかもしれない。

90年代に入ると「ポスト構造主義」など「ポスト」がつく様々な思潮が登場し、「啓蒙を反省したり批判したりする論調が目立つようにな」る。著者は「本格的な啓蒙が実現したとは思えない状況の中で、そういった反動が生じた」ことを「倒錯的」としている。それにしても、これってモロに80年代日本に起こったニューアカブームに重なるような。

ウェーバーの読まれ方なんかも共通点もあるように映るが、もちろん異なる点も多い。
中国ではカッシーラーが広く読まれたそうだが、こういう現象は日本では起こらなかった。もっとも『人間』というタイトルに惹かれてよくわからずにとりあえず読んでみたという人も多かったようで(著者もそうだった)、現象として見ればこういうところも似ているのかもしれないが。
またハイデガーをマルクスに引き寄せて読むというのは中国ならではのこと、というかそうぜざるをえない面もあったのだが、これを含め独自の受容のされ方もしたようでもある。

個人的に日本ではフランクフルト学派の位置というのがどうも低いように感じているのだが(でもないのかな?)中国ではとりわけハーバーマスが広く受け入れられたようである。中国のような政治体制ではハーバーマスのような立場がかえって輝かしく映るのかもしれない。

また「中国における」ということに限定されず、貴重な証言もある。フーコーの恋人でもあり、『ミシェル・フーコー思考集成』の編集も手がけたドフェールは、「基本的にはフーコーの伝記を書く人と会うのを拒否している」のだが、例外的に中国の研究者とのインタビューに応じている。
ニーチェ、バタイユ、ブランショからの影響やハイデガーについても興味深いが、なんといっても一番の注目は「ハイエク及び新自由主義」についてだろう。晩年のフーコーはハイエクや新自由主義に強い関心を寄せていたが、くしくも「最近十年間中国でもっともおおきな反響を引き起こした欧米の思想化はハイエクとフーコー」であったそうだ。
ドフェールによればフーコーは「統治性の角度から新自由主義を研究」し、「彼の新自由主義とハイエクへの興味は、新自由主義の生命を管理する手段を政治哲学の問題として思考したところにあった」。
そしてハイエクとフーコーの国家批判には共通点があるとしながらも、違いについてこう語っているという。「新自由主義の主な批判の目標は国家による経済政策への干渉であり、アナーキズムは国家への純粋な政治批判を行うのです。自由主義者は個人に生命を管理させ、国家でなく市場、自然法が管理者に当たるべきだと主張します。というわけで、フーコーは国家を拒否し、国家に対して懐疑的な態度をとっていたのです」(p.119)。
このインタビューは『読書』2008年1月号に掲載されたそうだが、日本語への全訳はあるのだろうか。中国語ができてフーコーに関心があって日本語で言論活動を行っている人というのもなかなかいないのかもしれないが、ぜひ読んでみたい(ちょっと検索してみたら石井剛氏による紹介はありました。こちら)。

翻訳といえば、翻訳の問題にはあまり立ち入ってはいないことは少し残念なところではある。
ハイデガーの「Dasein」(日本語訳では現存在とされることが多い)をある研究者は「親在」と訳し、これはハイデガーの読解と同時に中国思想という背景もあることに触れられているところもあるが、その他にはあまり取り上げられていない。やはり「現代思想」の摂取については翻訳という問題は欠かせないであろうし、このテーマについてはどこかで書いてほしい。

さらに翻訳といえば、中国ではロールズも注目を集め、その代表作はすべて翻訳が出ているそうだ。日本では主著の一つである『政治的リベラリズム』の翻訳はまだ出てないのですよね……

最終章では西洋思想の代表的な紹介者である劉小楓がカール・シュミットやレオ・シュトラウスに入れ込んでいく様子が描かれている。
シュミットについてはこの「ブーム」は世界的なもので日本も例外ではないのだが、著者は劉の読み方にかなり危惧を抱いているようだ。さらにネオコンの「ゴッド・ファーザー」ともされるシュトラウスに傾倒していくことを「転向」と呼び、「その君主豹変ぶりにはついていけないという思いを禁じ得ない」としている。
かつては劉が尊敬していたはずのカントも「現代におけるニヒリズムへの道を開いた思想家の一人」となってしまっているのだという。劉のこのような態度を著者は「儒学者が言う、夏、商、周の三つの王朝がいちばんよかったというノスタルジー」なのではないかとしている。

著者は丸山真男が福沢諭吉の「両眼主義」を評価したことを引き、劉のシュトラウス礼賛に疑問を呈してこの章を締めくくっている。
福沢についても取り上げた章があり、さぞかしボロクソに言われているのかといえば必ずしもそうではないようであるところもなかなか興味深かった。



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