漫画版『風の谷のナウシカ』

宮崎駿著 『風の谷のナウシカ』




いつか読もうと思ってから幾年月、ようやく手に取りましたので。
漫画を読むのって久しぶりだったのだけれど、慣れないと意外と疲れるものなのですね。


「アニメージュ」誌上でこの作品の連載が開始された時の宮崎駿の置かれていた立場というのはかなり苦しいものであったとされている。漫画家がアニメに進出することはままあることだが、アニメ作家が漫画の連載を始めるというのはかなり珍しいことだったのではないだろうか。これは宮崎が積極的に望んだというよりも、彼の厳しい状況ゆえにそうせざるをえなかったという面もあったのだろう。

そのせいもあってか、とにかくこの作品には宮崎駿的なものが、もう少し踏み込めば普遍的な物語の「型」というものがこれでもかと、いささか過剰なほど詰め込まれている。
擬史的な、あるいは擬古的な世界観はトールキンやルイスといったファンタジーを連想させるし、ヴ王一族をめぐる血塗られた権力闘争はシェイクスピア的であり(「道化」の存在からも明らかに意識している)、「土鬼」における独裁者の孤独とでもいうべきものはラテン・アメリカ文学も想起できる。
また宗教がイデオロギーとしての役割を果たし人々を惑わせていると同時に、土着的宗教が隠れて生き延び、それが抵抗となりうる可能性と頑迷さに結びつく可能性の両方が示唆されているというアンビヴァレンツな描き方がなされている。宗教や土着的なもの、近代的価値観と反近代性へどう向き合うのかという問題は、無邪気な進歩主義的世界観が失われた後の希望と苦悩が絡み合う左翼性へ結びつけることもできるのかもしれない。
そして「高貴」な「森の人」と蔑まれている「蟲使い」が裏表をなしているというのは多くの世界で見られる差別の構造の一つであり、もちろん日本も例外ではない。ここらへんはもう少しぼかした形で『もののけ姫』でも扱われることになるのだが、ここでは非常に直接的に描かれている。

と、このように切り口はいくらでも用意できるのだが、あえてこの作品を貫く一本の芯は何かといえば、それはSFに求めるべきであろう。
明らかに核戦争を連想させる破滅的な「火の7日間」(巨神兵は核兵器のメタファーであると同時に、「核」を使いこなそうすることからまた原発のメタファーとも捉えることは可能であるし、言うまでもなく両者は同じ根から生じたものである)を経て、文明が失われた後、中世(ヨーロッパ)に戻ったかのような生活を営みつつも、かつての文明の名残による科学技術を文字通りに「掘り起こして」使用しているところなどはまさにSF的想像力といっていいだろう。
そして物語の世界を「箱」としてSFから借りてきたのみならず、プロットにおいてもSFの「型」をふまえている。
人類の、あるいは地球の歴史というものが、実は巨大な力によって引かれていたレールの上を走っていたにすぎないという設定は最早古典的といってもいいものだろう。僕はSFにも疎いのだけれど、それでもこの系譜の作品としてはアーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』がすぐに思いつくし、同じくクラークを原作・脚本に迎えたキューブリック監督の『2001年宇宙の旅』もこの変容の一種といっていいだろう。

「ナウシカ」を読むにあたっては、映画版「ナウシカ」をふまえずに考えることは難しい。どうしても漫画版とアニメ版との対比という観点から考えずにはいられない。
映画版は2巻目の前半までを改変して流用(という言い方も変だが)しており、漫画版を薦める人はしばし「その後の展開は映画版の印象とはかなり違う。より深くい物語になっている」というようなことを言う。
確かに映画版「ナウシカ」の、とりわけその結末はかなり強引にハッピーエンドに引き込んでカタルシスを与えようとしているという印象は否めず、そのことには宮崎自身も満足はいっていないようである。

クラークの作品はペシミズムというよりは一種のオプティミズムを感じさせるものであるが、漫画版「ナウシカ」はひどく陰鬱な展開をみせることになる。
84年に公開された映画版に対する一般的なイメージとしてはエコロジー映画として受け取るものであろうし、そこに「平和の大切さ」というようなものを込みで考える人もいるだろう。70年代から80年代に起こった、「赤から緑へ」という政治的空気を反映したものとも受け取れよう。未だ冷戦下であったとはいえ、このような動きに希望を見出していた人も少なからずいたことだろう。

しかし、映画化後も続けられた連載では、ナウシカは隘路に陥る。進むも地獄、戻るも地獄という状況に追い込まれてしまうのである。ナウシカが下さざるをえない決断は欺瞞であるとすることもできる。しかしこのような状況に置かれたならば、これ以外の決断を下すことができるであろうか。むしろここで「正義」を貫くことは単なる自己満足となってしまうのかもしれない。ナウシカの決断は未来への跳躍(をする自分を肯定する)というような高揚感からはほど遠い。どちらへ転ぼうとも、苦いものとなるより他にないのである。

ナウシカたちにとっては絶望的な世界は避けようもないものであるのかもしれないが、一時的とはいえカタルシスを与えたうえで物語の幕を降ろすことも可能であったことだろう(漫画版の結末もカタルシスがないわけではないが、やはりその苦さがまさっている)。
宮崎はおそらくは意図的にカタルシスを回避しようとしている。カリスマ的軍事指導者であったはずのクシャナは途中から精彩を欠き続け、最大の敵になるとも思われた皇兄もあっさりとしたものであり、ヴ王のキャラクターもどこか煮え切らないものである。これらのキャラクターの造形に失敗したというよりは、この冴えない感じこそは映画版のやや安易ともいえる結末に対する反省から来たものであろう。

映画版が84年という時代の空気を(無意識的に)反映したものであったとすれば、漫画版は時代の空気を(予言的に)反映したものだったのかもしれない。連載の終了は94年、日本はバブルのユーフォリアと阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件の端境期であった。


今になって読み終えて何が凄いと思うかといえば、こんな作品をものにした宮崎駿が後に『ポニョ』のような作品を作ってしまうことである。いや、『ポニョ』は『ポニョ』で好きなんだけれど、こんな真似ができるのはやはり宮崎駿をおいて他にはいないのだろうなあ。
漫画版を忠実に映画化したらという夢想は少なからぬ人がすることだろうけど、それは言いっこなしなのでしょうか。


一巻のあとがきで「ナウシカ」のインスピレーションの元となったものとしてこれを挙げていました。




新装版が出てるのね。



なぜ今ごろになって読んでいるのかといえばこちらを読んだから。「94年の宮崎駿インタビュー」もよろしければ。





プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR