『桐島、部活やめるってよ』

『桐島、部活やめるってよ』

若干ネタバレ気味のところがなきにしもあらずでありますので未見の方はご注意を。
なお原作は未読でありまして、あくまで映画版のみでの印象ですのであしからず。




本作がまず讃えられるべきは、思春期のありようというものをリアルに描いていることだろう。世代は違えども、「こんなことあったなぁ」とか「こんな奴いたわ」という共通の思いに多くの人がかられることだろう。青春ドラマとして出色の出来である。

ではこの作品は、思春期特有の少年・少女の心理を徹底して追求したものなのだろうか。
「リアリティ」をより求めるなら、例えば実果が「笑っただろ」と詰め寄られそうになるところなどは、まさに同調圧力からの逸脱を示す場面であり、「いじめ」が生まれる瞬間であったという方向へ持っていくことも可能であろうが、そちらの方向へ舵を切ることはない。
実果に対してクラス替えというファクターを加えたのは学校生活における人間関係を描くうえで絶妙であり、この作品にリアリティが欠如しているというのでは決してない。ただある方向へは向かわないということである。これは一般的な意味での青春ドラマ、学園ドラマとはややずれた指向性を持っているということを表しているのかもしれない。

またこの作品はいわゆる「スクールカースト」を扱っているという見方をする人は多い。確かにそのような要素はあるものの、これもこちらの方向で「徹底」されてはいない。
桐島やその周辺が「カースト」の上位であることは間違いない。では前田たちはどうなのであろうか。確かに彼らは女子の一部から嘲笑われている。しかし桐島周辺の男子からは嘲笑されるのではなく視界に入っていないというべきであり、このような関係は「スクールカースト」における「上位」と「下位」の区分からするとややずれるのではないだろうか。端的に言うならば、前田たちは少なくとも男子からはいじめられてはいないのである。

さらに「スクールカースト」のシステムを描くには絶好であろうある場面で、それをむしろ回避しているケースすらある。
宏樹に恋をしている亜矢は放課後にバスケをしている彼らを見ようと一人屋上でサックスの練習(のフリ)をしている。それを知ってか知らずか、彼女が視界に入った友弘は下卑た冗談を言おうとするが、竜汰はそれをたしなめる。その後彼らが話の肴にするのは「身内」である梨紗のことなのである。
「スクールカースト」の残酷な掟に従うならば、彼らにとって「下位」に映っているであろう亜矢を嘲笑的な冗談のネタにするのをためらうことがあるだろうか。

仮にこの作品が「スクールカースト」、及びその転覆(への恐怖)を描いた作品であるとするならば、前田の立ち位置はあまりに曖昧である。
「前田は俺のことだ!」と思ったサブカル系趣味の人は少なからずいることだろうが、もしその人が本当に前田のような高校生活を送っていたとしたら、それは悪くないものだったのではないだろうか。曲がりなりにも「映画部」が存在し活動中であり、趣味を共有できる話の通じる友人もいる。確かに彼らは朝礼で辱めを受けたが、キャリーがプロムで受けた仕打ちと比べてみるがいい! 
この学校で「スクールカースト」の最下位にいるのは、「曙」かもしれない(彼には友人はいるのだろうか?)。こう呼ばれて思わず笑ってしまったが、おそらく彼は残酷な冗談のネタにされていることだろうし、そういうことは僕もしてしまったことがあるという少々苦い記憶も同時に蘇ってきた。しかし彼には「復讐」を遂げる機会すら与えられない。

この作品は、「思春期の高校生の心理状態のリアリティの追求」という面においても、「スクールカースト」の描写という面においても、トリミングが施されているのではないだろうか。だとすると、真のテーマはこれらにあるのではないのかもしれない。

まず注目すべきは中心人物とそれ以外がはっきりと峻別されていることである。これは「スクールカースト」の「上位」にいる人物の視点に限らない。映画部でいえば中心をなす二人以外はただの「モブ(群集)」でしかない(まさにゾンビ映画ごとく!)。このような切り分けは、スクリーンの片隅で無残に死にゆく人々にもかけがえのない人生があるのだという想像力をあえて働かせないようにしている、つまり世界をあえて狭めていると解釈することもできる。

さらには学校(と若干の例外としてその延長的な場所)以外のものがばっさりと切り落とされている。家族や高校以外の友人知人が登場する人物は一人もいない。
若者向けの人生相談でのお決まりの回答が「学校が全てではない」というものだ。学生時代は学校こそが世界の全てであると思い込んでしまいがちになるが、学校はあくまで世界の一部であり、世界は学校などより遥かに広く可能性に満ちている。ところがこの作品においては、登場人物は皆学校こそが全てなのである。

桐島が部活をやめる、ただそれだけのことによって世界が揺らぐかのように思えてしまうのは、彼らの「小ささ」を表していることは明白だ。バレーボールをやっていたりファンであるという人には申し訳ないが、桐島がバレー部であるというのもまた見事な設定である。バレーの名門校を除けば(そしてこの高校はおそらくは名門校ではない)、バレー部の主将がある種の「象徴的存在」となることは稀であろう。これがプロ注目の野球部のエースや海外のクラブから目をつけられるようなサッカー部のストライカーであってはならない。彼らが突然「降りて」しまったとしたら、それは象徴的な意味を持ってしまい、「小ささ」を表すことにはならないためだ。
この作品が徹底して描きだしていることは、「コップの中の嵐」なのである。

本作が演出上最も強く影響を受けているのはガス・ヴァン・サント監督の『エレファント』であろう。
「思春期がほろ苦くも甘酸っぱい思い出? 俺は地獄を見たぞ」という人も、もちろんいる。『エレファント』はまさにそのような地獄にあった少年の姿を描いている。ご存知の通り『エレファント』はコロンバイン高校での銃乱射事件に取材して作られている。彼らの「世界」を、ある一日を角度と視線を交代させながら立体的に浮かび上がらせようとした作品である。
『桐島』は演出上の類似点は多々あるが、こちらにおいて描かれるのはむしろ「薄っぺらさ」である。
ゾンビたちが食い殺すのは前田の妄想の中でしか実現しない。前田は「地獄」にいるわけではない。彼の抱える鬱屈は、「その程度」のものでしかないのである。

『桐島』を語るうえで必ずといっていいほど持ち出されるのがベケットの『ゴドーを待ちながら』だ。確かにタイトルにありながらその人物が登場しないという点においては類似性は見られるが、両者を引き寄せて語るのにはもう少し慎重さが求められるべきではないだろうか。

「ゴドー」は「神」である、という解釈は「常識」となっている。しかしここにおいての「神」とは何を指しているのだろうか。
ニーチェは「神は死んだ」と言った。ニーチェが死を宣告したのは神という存在ではなく、その概念であろう。これまで神というものが存在していて、その神はすでに死んでいるという意味ではなく、そもそも「神」なるものは作り上げられたものであるということだ。
『ゴドー』はポスト・ニーチェ的、つまり「神(という概念)」の死が自明化された世界の物語であると考えられる。神が来るのかどうかはわからないがそれでも待ち続けるのか、それとも神なき世界を歩み続けるのか、そのどちらかを選ぶのではなく、そのような問い自体がすでに失効している世界なのである。「ゴドー」はナンセンスなスラップスティックでもあり、それは最早選択の問題ではなく、ただそこにあるだけなのである。

『桐島』の世界とは、神(という概念)が死を迎えたことが自明視されている『ゴドー』のようなポスト・ニーチェ的な世界ではない。桐島は「現実」に存在していたし、その不在によって「秩序」が転覆されるのではなく崩壊するのではないかという恐れを抱くのが桐島の周辺の人物であろう。プレ・ニーチェ的世界とポスト・ニーチェ的世界の過渡期的な狭間にあるといえるのかもしれない。

コードは解読されることによって初めてコードとして成立する。思春期とはこのコードの解読ゲームが自意識により肥大化した姿であるといってもいいのかもしれない。コードを読めない者は、「空気」の読めない存在として足蹴にされるのである。桐島の、彼らにとっては不可解な不在が象徴するものは、彼らがコード解読ゲームに遅れをとってしまっているのではないかという疑念ではなく、ゲームのルールが変更される、あるいはすでにされているのではないかという恐れである。

その中でニーチェ的にこの世界に適応している人物、それが前田である。彼は自分のやっていることが「無意味」であることを知っている。それはバレーの「県選抜」に選ばれることが「無意味」であることと同じ意味でだ。しかし前田はそのことを知りながら、自らの行いに肯定的なのである。ニーチェの言う永劫回帰とは、同じ一生が繰り帰されるという地獄ではなく、同じ一生を何度繰りかえそうとも自らを肯定できるような生を送ることである。肝心なのは「意味」ではない。「神は死んだ? だからなんだ」と哄笑できる生なのである。前田は、少なくとも精神においては「末人」よりも「超人」に近い。

では前田と対照をなす人物は誰であろうか。梨紗か? 沙奈 か?竜汰や友弘だろうか。実はそれは、野球部のキャプテンなのかもしれない。人の良さそうな信念の人であるかに映るあの人物こそが、ニーチェが忌むところの「弱者」であるのかもしれない。彼はスカウトが視察に来てもいないのにドラフトまでは部活を続ると言い、日夜努力を惜しまない。彼が信じているものは何なのだ? まさに「弱者」が作り上げた「神」ではないのだろうか。
しかしこの作品はニーチェ的な前田の「勝利」によって幕を降ろすのではない。宏樹は神なき世界に自分が住んでいることにすでに気がついていた。彼はそれに気づいてしまったせいで最早野球部に戻ることはできないし、あの惰性的なキスに象徴されるように虚無感にすら覆われているようにも見える。しかしそれを認める勇気がなかったし、その自らの姿が映し出されるカメラの前に立つことには耐えられないのである。そして彼は最後に……


『エレファント』は銃乱射犯を頭のおかしな奴らの蛮行と切り捨てるのではなく、血を通わせようとした試みだといえるだろう。そして『桐島』は、それとは対照的に、薄っぺらで小さな人間を非情なほどに冷酷無比にあばきだした作品なのかもしれない。
多くの人が『桐島』について何かを語りたくなってしまうのは、誰もが抱える思春期の疼きというよりも、この冷たい世界がいたたまれずに、暖かい息を吹き込んでしまいたくなってしまうということなのかもしれない。

それだけ「熱い」気持ちにさせるすばらしい作品であったと思います。


ええっと、実はアップダイクの『走れウサギ』に絡めようと思ったり思わなかったりもしていたのだが(『ウサギ』に絡めて語っている人っていないような気がしたもので)、なんか書いているうちに自分でもよくわからん方に流れてしまってすっかり長くなってしまったのでこのへんで。
あとニーチェについてはかなり適当にして怪しい知識しか持っておりませんのでその点ご海容くださいませ。




プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR