『エコー・メイカー』

リチャード・パワーズ著 『エコー・メイカー』




カリンのもとに弟のマークが交通事故で重症を負ったという連絡が入り、彼女は逃れてきたはずの故郷ネブラスカへと向かう。
事故の状況にはどこか不自然なところがあった。マークは自殺を試みたのか、それとも何か裏に事情があるのか。さらにマークの病室には謎の手紙が残されていた。事故の目撃者が残したのだろうか。
マークは頭部にダメージを受けたものの一命をとりとめ、身体と言語能力は回復に向かうかに思われた。しかし彼は、家族や恋人のような大切な人が瓜二つの何者かと入れ替わっているという妄想にとらわれるカプグラ症候群を発症し、カリンを偽の姉だという思い込んでしまう。途方にくれたカリンは、藁にもすがる思いで脳についての著作やテレビ出演などでも高名な神経学者、ウェーバーと連絡を取る……


カプグラ症候群を発症したマークはカリンを本物の姉だと認めることを頑なに拒み続ける。偽のカリンは本物とは微妙に違っている、何か目的があって送り込まれて来たに違いない。突拍子のない考えであるが、マークはこれに合理的な説明を与えるために巨大な陰謀がはりめぐらされていると訴える。住み慣れた家も偽物であり、ついには自分をだますために街全体を何者かが作り上げているとまで思い込み始める。この物語は2001年の911テロ直後の物語であり、マークの妄想は友人たちの右翼的妄想とも共振してしまう。

マークが「正常」でないこというとは誰の目にも明らかなように思える。しかしこれはマークに限ったことなのであろうか。
子どものころ、朝目が覚めて親と会うと、この人たちは本当に自分の親なのだろうかという疑念にかられたという経験を持つ人は少なからずいるのではないだろうか。いつの間にか世界はすっかり作り変えられてしまっていて、知らぬは自分ばかりなりということなのではないか、という思いをしたことが。本作でも言及されている『ボディ・スナッチャー』をはじめ、SFやサイコ・スリラー、あるいはミステリーにも類似のモチーフが導入されている作品がいくつもあるのはその証拠なのかもしれない。

この作品は基本的には三人称で語られているため厳密な意味ではそうはならないが、カリンは「信用できない語り手」でもある。
カリンはその不幸な家庭環境から、同僚などと家族についての話をすることを避けていた。故郷はそのトラウマ的な記憶と結びついている場所でもある。カリンが思い出すマークは、幼い頃の繊細で心優しい「いい子」としての姿である。しかし現実のマークは、はたから見ればカリンからすると眉をひそめたくなるような友人たちと自堕落な生活を送っていたようにも思える。あるいは故郷のかつての恋人であるダニエルについて、そしてとりわけロバートについて、彼女はどれだけ「正しく」語っているのだろうか(トニーとの「過去」をあのタイミングで語るとは)。
このような自己欺瞞を働くカリンは「正常」なのか「異常」なのか。そう考えると「誰もが病気であり、正常な人間などいない」というお決まりのお題目めいたことを言いたくなってくる。自らの「正常」性を疑うことができるかどうかというのがその分かれ目なのであろうが、それとて明白な線が引けるわけではない。

友人知人は認識できるにも関わらず大切な人のみ誤認してしまうというのは、精神分析的解釈を誘うかのようだ。実際この症例が発見された後はそのような説明がなされていたようだ。近親者に性欲を抱き、それを否認するためにこのような症状がでるのではないか。しかしマークが飼い犬までも偽者だと思い込むことなど、実は心の奥底で獣姦願望を持っているのだというような少々無理のある解釈でもしない限り、この説明には矛盾も生じてしまう事例もある。医学的にはその後の研究の進展により、これは脳の機能的な問題であるとされるようになっていく。しかし本当に、それだけで説明をつけることができるのだろうか、ウェーバーはそう疑問に感じている。
このようなカプグラ症候群解明の歴史は、ウェーバー自身の知的遍歴と重なるものなのである。
当初は熱心なフロイト主義者としてスタートし、その後治療法としての精神分析の失効を経験する。しかしウェーバーはまた機能的に全てを説明できるという考えに留保が必要なのではないかという思いにとらわれ始めてもいる。

このようにこの作品は、長い海岸線の一部を拡大してみるとそれは海岸線全体と同じ形をしているというような、フラクタル的ともいえる構造を持っているのかもしれない。
マークという特殊な症例(ゆえにウェーバーも興味を抱き、わざわざ調査に訪れる)は、実はカリンのように「正常」である人間にも見られることなのかもしれない。中西部に生まれながらその過去から遠く離れてしまったと思い込んでいる人間であるウェーバー自身も、もちろんこのような事態から逃れようもなく、彼は危機を迎えることとなる。この小説全体がウェーバーの人生やその可能性を夢として表れる潜在意識のごとく物語化したものとも思え、それはまたあらゆる人間に普遍的な体験のようにも思える。そしてそのような普遍的物語は個別的症例としてマークのような形をとることもあるのではないか、と。

もし、人間が人間に対して抱く共感や断絶、疑念や信頼、さらには愛までもが全て脳の機能として説明がついてしまうのだとしたら、人間はその重みに耐えられるのだろうか。そこに「意味」を見出さずにはいられないであろうし、それが暗い陰謀を見出したり、自己欺瞞という形をとってしまうこともあるのかもしれない。
マークやその友人たちには911後の暗い影が投げかけられている。ウェーバーが迎える危機も、一見すると無関係のようだがツイン・タワーの消えた、あったはずの影がない見慣れないニューヨークの光景がその心理に影響を与えたとも考えられなくもない。そして誰よりも「意味」という物語に捉われてしまったのがマークであり、またある人物でもあろう。しかしマークが信じる「物語」は「意味」を意味たらしめようとするだけのものなのであろうか。むしろ物語によって共感や愛が生まれるのかもしれない。そしてその逆の形をとることも。
「薬と運は仲のいい友達なんだ」、ウェーバーは投薬治療の開始に不安を持つカリンに言う。科学的な経験の積み重ねの結果得られた合理的解決方法も、「賭け」の集積に他ならないのかもしれない。


エコー・メイカー、谺を作る者。アステカ人は自らを「鶴の民」と呼び、アニシナベ族の一部族は「鶴たち」、アジジャックまたはビジナシー、「 谺を作る者」と呼ばれたという。
ネブラスカのある街の、唯一の観光資源が飛来してくるカナダヅルである。この作品はまた、うらびれたこの街の、鶴をめぐる疑念と陰謀の物語でもある。人々は繁殖のため踊り舞う鶴の群れに何を見出してしまうのであろうか。


リチャード・パワーズの小説家としての優れた資質をあえて一つにしぼるなら、何よりもストーリー・テリングの才能であろう。この作品にも見られる、テキストを、一本一本の糸をまさにテクスタイル(織物)として織り上げていき、一枚の流麗にしてなめらかな生地へと収斂させていく手際はずば抜けている。
『エコー・メイカー』は、そのようなパワーズのストーリー・テラーとしての才が遺憾なく発揮された作品であろう。詳細にして膨大なリサーチを施されている作品というのは、えてしてリサーチの結果に物語を奉仕してしまうような形にもなりかねないが、そのような印象はない。カプグラ症候群をはじめ目を疑ってしまうような症例も実在のものであり、またミラー・ニューロンなど脳科学の最新の知見を物語に導入したものであるが、かといってこれらが物語りから浮いていたり、そのような事情に疎い人間(僕もその一人である)を遠ざけるものともなっていない。
やはりこの構想力と素材を捌く手腕には舌を巻くより他にないと思わせる傑作である。


そういえばアメリカシロヅルも登場するのだけれど、これは『カウガール・ブルース』への目配せということではないと思うけど、アメリカシロヅルってアメリカ人にはどんな存在なのだろう。


パワーズは『世界は村上春樹をどう読むか』に収録されている講演(ちょうどこの作品執筆中に行われた)でミラー・ニューロンについて語っていますね。




その他「訳者あとがき」で触れられているのはこちら。どちらも読んでいないのでそのうちにでも。




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佐藤太郎(仮)

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