行き場がないというお話

11月11日の朝日新聞の朝刊に編集委員の原真人が「リフレ論 危うい「雨乞いの踊り」」というコラムを書いている。内容をざっとまとめると、日銀は十分に金融緩和をしているがデフレから脱却できないのだからリフレ派の理論は破綻している、これ以上金をばらまけば国債の暴落が起こり日本経済はとんでもないことになる危険性があるというものだ。
日銀によるレクチャーをそのまま書き起こしたという印象であるが、今これを読むとまだ政権を取ってもいない安倍晋三が騒ぎだてただけで円安株高にふれていることをどう説明するのだろうかという気になる。

では安倍が総理の座に収まればリフレ派にとって一安心なのかといえばそうとは思えない。
安部のここ数日の発言を見ていると、日によって微妙にニュアンスが異なる発言をしていることがわかる。これはおそらく、耳学問による生半可な知識とその場その場の思いつきが合わさってのことだろう。僕自身が経済学についてはまさにこうなので、これが一般人ならとりたてて揚げ足をとろうとは思わないものの、次期総理の最有力候補がこれでは心持たないと感じる人も多いだろう。

今となっては信じられないかもしれないが、管直人は財務相に就任したときに1ドル95円程度が望ましいと発言していた。これが実現していれば日本の経済状況も大分違ったものとなっていたであろうし、そうなれば民主党の支持率も全く異なったものとなっていたことだろう。しかし結果は財務官僚にタコ殴りにされ、逆にお先棒をかつぐようになってしまった。
リフレ派から大きな期待をされていた馬淵澄夫は政策的整合性よりも政局的生き残りの道を選んだ。小沢鋭仁は維新に遁走。デフレ脱却議連の会長だった松原仁は大臣ポストを与えられるとだんまりである。

自民党内は数のうえでは親財務省、親日銀の議員が多いことが推測されることを思えば(さっそく幹事長の石破が安部をけん制している)、安部は民主党内のリフレに親和的だった議員の惨状を他山の石にしなければならないはずだがその気配はない。それどころか、安部の言動を見ていると、他党の失敗から学びとることはおろか、かつての自らの失態からすら何一つ学んでいないという印象は強い。

安部がリフレ政策を行うことに期待する人の中には、安部が極右政策をとるからといって批判するな、足を引っ張るなというようなことを言う人がいるのだが、これはむしろ贔屓の引き倒しだろう。
今の自民党に対して、アホなことさえしなければ余裕で勝てるのに、と思っている人は多いだろう。このアホなこととは極右路線である。現在の日本の置かれている状況下で憲法改正だなどとのたまっている連中を見ると、必ずしも熱心な護憲派でなくともこいつら本当に日本の現状をわかっているのだろうかと疑念がわくことだろうし、しょうもない連中が教育に手を突っこもうとしているのを見ると、こんな連中に政権を渡していいのだろうかと不安になってくる人も多いだろう。
本気で安部にリフレ政策を実行してほしいのなら、むしろ極右カードは封印しろ、余計なことをして自滅する前に日銀法の改正等に集中しろと言うべきだろう。

十分に起こりうるのは、安部政権が日銀法の改正を目指すものの党内すらまとめることができず、意見の分かれるリフレ政策はグダグダになり、手っ取り早く求心力を回復させようと極右路線を強化することだろう。
鳩山由紀夫が展望もなく基地問題をかきまわした結果、主要政党では基地問題を持ち出すことすらためらわれるようになってかえって沖縄の基地負担の軽減は遠のいたように、日銀に手を突っこんでも政治的に碌なことにならないという印象を政治家に植え付けてしまうということにもなりかねない。
おそらく熱心な安部支持者以外のほとんどが、来たる安部政権は短期間で自滅、崩壊するだろうと予想しているだろうが、そこで「リフレって安部が言ってたトンデモでしょ」という具合にリフレ政策そのものまで政策論として葬られかねない危険性すらあるのかもしれない。


安部は極右である、安部はリフレを唱えている、従ってリフレは極右の政策である、というのは論理の飛躍もはなはだしい三段論法であるが、これに類する発想からリフレに抵抗感を抱く左がかった人は結構いる。おまけに高橋是清が国債を日銀に引き受けさせたせいで軍事費が膨張し、軍国主義に歯止めがかからなくなったという俗論がこれに油を注いでいる。
そもそも「リフレ」という言葉は石橋湛山に由来するものなのだが、湛山は極右だったのか? という感じなのだが。

左翼の名誉のために(?)言っておくと、愚かなのは左がかった連中ばかりではない。最も異様な言動を取っているのは経団連をはじめとする経済団体ではないだろうか。消費増税には血眼になる一方で自らを苦しめているデフレ・円高には無関心という態度は合理性のかけらもないように映る。
なぜこのような見方が立場の違いを越えて広がるのかといえば、ここには「官僚への信頼」という問題もからんでいるように思える。

ネットを見ていたら、金融政策に関心も知識もないと思われる人が安部をクサしたいがゆえに白川日銀総裁を持ち上げているのが目に入って暗い気持ちになってきたのだが、これは朝日新聞の20日の朝刊に掲載された渡辺靖慶大教授のインタビュー記事を読んだ時と同じような気分であった。

渡辺はここで「日本社会を悲観論だけで語ることには強い違和感」があるとしている。しかし、「ただ、その中で、政治だけが妙に停滞しているという印象」があり、「時々、今の日本社会に政治家って本当に必要不可欠なのか、考えれば考えるほど分らなくな」り、「しっかりとした官僚組織があって、調査報道メディアやウオッチドッグ(監視)団体などがこれをチェックし、民間企業が頑張れば、政治家がいなくても機能していくのかな、と」と語っている。

これは冒頭部分であり、「話のまくら」として、一種の「与太話」であることを承知のうえで語っているのだろう。現在の日本には広く影響力のある「調査報道メディア」も「ウオッチドッグ団体」もないことを考えれば、このような「政治家不要論」は「ネタ」として受け取るべきであろう。しかしそのような「ネタ」が生まれる前提として、「日本の官僚は優秀」という先入観が働いてはいないだろうか。ここに無意識の表出を見ていいのかもしれない。

安部を批判するために白川を持ち上げる人は、白川の学歴や日銀生え抜きという経歴が影響しているのかもしれない。シカゴ大学で修士号をとった官僚である白川が、理に合わないすっとんきょうな政策を取るはずがない、という具合に。

古典的ジョークとして「健康になれるのなら死んでもいい」というものがあるが、日銀がここ十数年とってきた金融政策はまさにこれにあたるだろう。
日銀はインフレならぬ「デフレ・ターゲット」政策を取っていると批判する論者もいるが、日銀はなぜこのような金融政策を取るのだろうか。様々な陰謀論を語る人もいるが、一番大きな要素は単純に組織防衛にあるのだろう。
70年代の日本には「狂乱物価」が訪れたが、不景気とインフレが同時にやってくるスタグフレーションに苦しんだアメリカとは違い、雇用等には大きな影響は及ぼさなかったものの、インフレの恐怖は多くの人に植え付けられた。80年代後半にはバブルが到来し、プラザ合意に続く円高への対策としての金融緩和がこれを招いたという批判が日銀にも寄せられたが、実はこのころの日銀の金融政策の舵取りは絶妙であったという評価もある。そして90年代に入ると、早く大幅すぎた利上げと遅く小幅すぎた利下げや引き締めすぎた金融などによって日本経済は停滞していくが、世間的には不景気を招いたはずの三重野日銀総裁は「平成の鬼平」、「庶民の味方」と持ち上げられた。

仮にインフレ・ターゲット3パーセント程度を導入し、それが達成されれば日本経済の状況は相等に改善することが予想されるが、一方で「庶民いじめのインフレ政策」というような日銀批判が吹き荒れる可能性もある。日銀としてはせっかく手に入れた「独立性」を維持しようと考えた場合、デフレ状態に据え置くのとマイルドなインフレを起こすのでは前者の方が有利であるという判断が働いているのではないだろうか(というかそれ以外に「合理的」な説明を与えるのは不可能なように思える)。

渡辺は「政治家だけではありません。今、日本を取り巻いている世界に対して、有権者もメディアもいつのまにか永田町の政治家と同じ目線で見ているとしたら、それは困ったことです。気づかないうちに自分も永田町の住民のようになっていないか。これは自覚してほしい」と結んでいる。
ここは確かにその通りなのではあるが、「政治家不要論」のような「与太話」は、ネタとしてであれ日本の官僚優秀神話に棹差すものであるということも自覚してほしいという気分にもなる。

僕は渡辺の著作にはだいたい目を通しているし、尊敬もしているだけに残念なのだが、なぜ残念に思うかといえばここに一種の「断絶」を感じるからである。
渡辺は「リベラル」といってもいい存在であろうが、こういう人は一般論としてはなかなかいい事も言うのだろうが、ではそれを実現するためにどうすればいいのかという具体性からはひどく遠くにいるという印象である。なぜそこから脱せないのかといえば、ここに「断絶」があり、この断絶こそが「リベラル」の衰退(というと昔は栄えていたみたいで適切ではないけど)を招いているのではないだろうか。
その「断絶」の正体とは「余裕」である。「政治家不要論」のような与太が飛ばせるのも、日本はまだ落ちてはいない、落ちたとしてもその底は浅いという意識があるからではないか。日本の底は抜けていて、どこまでも落ちていくのではないかという恐怖心を抱いてはいないのだろう。

もう一度原真人を引っ張り出す。10月28日の朝刊に「訪問者が見た日本 低成長でも悪くない」というコラムを書いている。
これはIMFと世界銀行の年次総会のため来日した各国の人々が、日本の街並みの美しさや利便性に関心していたという内容である。そしてこのコラムはこう締めくくられている。「経済成長では落ち目でも、私たちの暮らしに埋め込まれている技術や文化、社会システムには「宝物」がたくさんある。楽観しすぎはいけないけれど、低成長でも日本はそんなに悪い国じゃない」。

外国から来た一時滞在者にはそう見えても、日本社会のいささか神経症的な利便性の多くが低賃金労働者をすり減らし、使い捨てることによってかろうじて維持されているのではないかという方向へ原の想像力は一度でも働いたことがあるのだろうか。
そして何より、「低成長でも悪くない」ということは失業者は一生失業してろと言っているに等しいことである。低成長でどうやって雇用問題を解決するのか、ぜひともご教授願いたい。

しかしこのような原のコラムは、「そうだ、経済成長ばかり追い求めるから日本はおかしくなってしまったのだ。これからは成長抜きの生き方を考えるべきだ」というような日本の「リベラル」な人の心に響いてしまう可能性がある。
「断絶」というのはまさにこのことで、「リベラル」な人々が日本社会の現実から目をふさぎ、未だに「あのころ」を前提とした空論にしがみついている限りは、ますますその存在感を失っていくことだろう。


ということで安倍晋三がきちんとリフレ政策に取り組んでくれることが期待できれば、僕は自民党に票を投じる……のかといえばもちろん投じない。
リフレさえやってくれればあとはどうでもいい、などということはやはり口が裂けても言えない(そもそも安部がリフレ政策の実現を最優先に考えているのかが怪しいものだと思っている)。
少しばかり右よりという程度なら許容しないことはないが、安部や安部のような人物を総裁に選んでしまう自民党というのは僕にとっては一線を越えている。昔の自民党が良かったとは言いたくないが、少なくともあの浅ましい生活保護叩きや人種差別に対して正面から苦言を呈することができた人材はいたはずだが、今の自民党にそれは望むべくもない。

極右は黙っていても寄ってくるし、「中道」は民主に絶望しきっているというこの状況で、わざわざ国防軍だのなんだのというまさに与太話を始める安部の政治センスを見て、これに好意的でいられる人というのは単にイデオロギー的バイアスに毒されているとしか言いようがないのではないか。


様々な問題を承知のうえで再配分型福祉国家という理想に踏みとどまり、その実現のための「原資」として経済成長が必要という、そう過激とも思えない立場の人間が最も行き場がないというのが、今の日本の政治状況なのでありますよね。
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佐藤太郎(仮)

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