『有害コミック撲滅!』

デヴィッド・ハジュー著 『有害コミック撲滅!  アメリカを変えた50年代「悪書」狩り』





フロリダ州の、「夢見たものの果たせなかった人生のための神殿」のような家に住むジャニス・ヴァロー・ウィンクル。19歳の頃からクオリティ・コミックス社で仕事を始め、11年後の「ある夕、仕事から家に帰ると、彼女は二度と職場に戻らなかった」。彼女はその後も絵筆を握り続け、家に飾られた作品からその才能が窺える。なぜ彼女はプロとしてのキャリアに終止符を打ったのだろうか。
「私はそこには戻れなかったのです――死ぬほど怖かったんですよ。あの人たちが私になにをしたか、あなたは知らないんですか?」(p.3)。


黎明期から激しい弾圧が落ち着く50年代までのアメリカにおけるコミックスの歴史が描かれている。原題はThe Ten―Cent Plague(10セントの疫病)。弾圧の歴史のみならずアメコミ全体を俯瞰できるような内容になっている。


新聞マンガはかのピューリッツァーが、英語を読まない大衆にも人気を呼べるようにと『ニューヨーク・ワールド』紙にフルカラーの付録をつけたことに始まる。
「夢の国 リトル・ニモ」をはじめ、現在から見ても芸術度の高い作品が生み出されるようになる一方、早くも1909年には「アメリカの子どもたちへの犯罪」という、コミックスが子どもに与える悪影響を批判するコラムが書かれている。
当初の新聞に掲載されたマンガを採録したものから、オリジナルの作品も掲載した10セントで売られる雑誌が1930年代には広く流通するようになっていくことになる。

スーパーマンを生み出したシーゲルとシュスターは共にユダヤ人であり、スーパーマンは「キリストのひとつの隠喩」であるという解釈もなされる。初期の物語は「夫の暴力の犠牲となった妻たちのかたきを討ち、不当に罰せられた者の嫌疑をはらし、スーパーマンは大恐慌を生きのびた者たちに直接話しかける。彼自身も他の星からの移民」なのであった。
スーパーマンの人気から多くの模倣作品が生まれるが、「勇気、正義、肉体的なパワーや愛国心を吹き込まれ」たスーパーヒーローたちは、「読者たちの冒険のたびへのはけ口や、社会的慣習や権威への挑戦のための道具というよりも、アメリカの善と美徳に対する直截な信仰表明」という形をとるようになる。そして「パール・ハーバーの奇襲の後は、ほとんどすべてのヒーローたちが、殺人者や誘拐犯や銀行ギャングたちを相手にせず、犯罪と戦うのをやめて、スパイや枢軸国側に協力する科学者や破壊工作者その他アメリカ国内の脅威と戦うことに集中」することになっていく。
このような内容からすると皮肉なことだが、マンガの批判者はこのようなスーパーヒーローものにファシズムの萌芽が潜んでいるという批判を繰り出すことになる。


本書を読んでいると、いつの時代どの国であろうと、このような批判者たちは自分たちが忌むものの姿を気に食わない相手に投影するのだということがよくわかる。

スーパーヒーローものだけではなく、犯罪の実録ものも人気を博した。マンガにおいては、往々にして「いわれのない暴行、正当な告発なしに容疑者をとらえる」といった「不法な、もしくは社会的に受け入れられないやり方」によって事件が解決されることがあったが、「法の外で働くヒーローが少しいて、そのほとんどが法を超えているが、法に逆らう者はいない」のであった。これに目をつけたのがFBI長官のフーヴァーである。フーヴァーは「これらのマンガには、大衆の犯罪への嫌悪を育て」ているとして、FBIから様々なエピソードを提供し、36年には肝煎りで「Gメン」の活動を描いた新聞連載マンガを通信社に紹介させている。

しかしマンガが子どもを非行に走らせているという批判が高まると、フーヴァーは43年には「売春、殺人、レイプ」といった言語道断な犯罪が若者たちに広がり始めているという署名記事を新聞に寄せ、一転してマンガ有害論に加担する。
しかしフーヴァーがその証拠としてあげた数字については異を唱えた者もいた。その反論は「(a)彼は有罪者よりも逮捕者の数をあげがちである。(b)多くの地域に見られる、うろつき罪、門限破りなどの新しい犯罪の増加を数えていない。(c)青少年の脅威への恐れが増大したため、法執行機関が若者たちへ注意を集中し、その結果逮捕の増加がくり返されることになった」というものである。そして児童局主任が43年に発表したパンフレットは、「入手できる統計は、新聞が声高に主張するような「少年犯罪」の増加傾向への警告を示してはいない」(p.96)と結論を出している。
これなど60年ほど後の日本にそのままあてはめることができてしまうような状況である。

しかしこれによってコミック排撃の流れが止まるわけもなく、むしろ加速していくかのような展開を見せる。中でも力を入れていたのがカトリック教会であった。実はカトリック教会は、布教にカトリックの教えにかなった聖書物語のようなマンガを使ってもいた。その影響力がわかっていたからこそかえって強烈な反応を見せたのであろう。

「スーパーヒーローたちをファシズムの例」としてあげ、ジェズイット教会の神父であり大学教授でもあったある人物はこう言っていた。「個人が社会秩序を「のっとって」しまうのが英雄的だと、もし若者たちが思うならば、われわれはヒトラーに供物を捧げることになってしまう」。
批判者が「敵」の姿に似てしまうというのはしばし見られる現象である。戦後に何が起こったのか。それは焚書であった。教師などに先導された一部の子どもたちはコミックスを回収し、山のように積み上げると火を放ったのである。まだナチによる蛮行の記憶も生々しい中で、まさにナチが行ったことをアメリカという国でくり返してしまうことに一部のメディアは言論の自由という観点から危惧の念を示したが、この危惧は広く共有されることはなかった。


50年代に吹き荒れた赤狩りと共振するかのようにマンガへの弾圧は続いていくことになり、この中で多くのクリエイターがこの業界を去ることになる。
「一九六〇年代初頭にコミックブックの出版は回復したが、それは縮小されたかたちで、またスーパーヒーローものの英雄的行為に回帰するかたちで行われ」ることになるのである。

50年代に繰り広げられた公聴会の様子は、80年代に起こるロックにおける歌詞の問題のそれを想起してしまうが、ではこれらは海の向こうの過去の話なのだろうか。
一見するとは科学的な根拠を持っているかのように思えてしまう精神科医がマンガの害悪を説き、、一部の極端な事例をセンセーショナルに取り上げ統計的事実を無視して危機感を煽るメディア、そしてついには法規制にまで発展してしまうというのは、現在の日本において他人事でないどころか、まさに同じ状況が現在進行形として存在している。


ちなみに僕はアメコミに限らずマンガ全般に疎いもので、そういう人間には本書で名前があげられている人物はアメコミの歴史においてどういう位置をしめているのだろうか、という疑問にかられたりもした。原著はおそらくアメコミについてある程度の知識があることを前提として書かれているのだが、アマゾンの書評氏も書いているように、贅沢をいえば訳注等でそこらへんの文脈をふまえていない人へのフォローというのが欲しかったかなというところもはある。
とはいえアメリカのマンガ史という点でもなかなに面白く読めるし、原著にはないコミックブックの図版が多数収録されているのも楽しい。何より、いつ何時どこであろうとも起こりうる「悪書追放」の一形態を確認できるというのは現在の日本でも意義深いことだろう。
プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR