再配分と「倫理」、そして民主党の崩壊について その1

先のアメリカ大統領選挙について、自由対平等、あるいは小さな政府対大きな政府の戦いであったと考える人は多いだろう。確かにこれは間違いではないものの、それほど「高級」なものだったのかといえば疑問にも思う。

アメリカのリベラルとは何かを大雑把にまとめると、社会的、公的な領域では平等を重視し(従って富裕層から多くの税金を取って貧困層へ再配分することや、アファーマティブ・アクションのような措置により「強制的」に平等な状況を作り出そうとすることを厭わない)、私的領域では自由を重視する(従って中絶や同性婚といった個人の選択に国などが介入すべきではないと考える)とすることができるだろう(アメリカの民主党が必ずしもこのような考え方で統一されているわけではないが、その問題はとりあえずここでは置いておく)。
そして共和党はちょうどこれを裏返した政策を取っていることがわかる。

アイザイア・バーリンの二つの自由を用いて考えると、民主党が「積極的な自由」側であることに異論はないだろう。では共和党は「消極的な自由」側を代表する政党なのであろうか。
アメリカ人以外が現在の共和党を見て最も奇異に感じるであろうことは、ウォール街の金融屋に代表される大富豪と、週に一度教会に行くことだけが楽しみというようなバイブル・ベルトに住む「信仰心に篤い」人とがなぜ同じ政党を支持できるのかということだろう。

「高級」でないとはこういうことだ。現在の共和党はある価値観を積極的に打ち出しているというよりは「リベラル嫌い」によって結びついているだけである。もっとあけすけに言ってしまうなら、貧乏人や有色人種が嫌いで、貧乏人や有色人種に味方するリベラルはもっと嫌いだということでのみ意見の一致をみている政党だとしてもいいのではないだろうか。
共和党は70年代あたりから意識的にこのような「リベラル嫌い」層を選挙戦略として取り込もうとしていたのだが、気がつくと選挙戦略としてではなく本気でリベラルを憎悪する人間に乗っ取られてしまったというところだろう。

大統領選挙の投票行動を見ると共和党が優位だったのは中高年白人男性のみで、あとは軒並み民主党が優勢であった。中でも痛かったのはヒスパニック票をごっそりと失ったことだろう。カソリックが圧倒的であるヒスパニック系は中絶や同性婚といった問題では共和党の潜在的な支持層ともなりうる存在であり、実際過去数回の選挙を見てもヒスパニック系の共和党への投票は必ずしも少ないわけではなかった。
しかし共和党右派による人種差別的な移民攻撃に歯止めをかけることができず、その結果今回はごそっと民主党に流れることになった。ここにはもう「戦略」は存在していない。


再配分政策への攻撃として人種差別が用いられるのか、あるいは人種差別の方便として再配分政策批判が用いられるのかという問題は考えだすとなかなかやっかいではある。そもそも再配分政策自体が一種の「ナショナリズム」を梃子にして初めて成立することは否定できないことであるし、それを考え合わせるとなおさらである。

とりあえずの事実として、再配分政策への批判と人種差別が絡み合うことは広く見られる現象である。ヨーロッパでは旧植民地や隣接する地域からの移民が標的にされることが多く、アメリカではかつてよく槍玉に挙げられた「福祉の女王」がゲットーに住む黒人シングルマザーを連想させるということは誰の目にも明らかである。もしオバマの父親がケニアからの留学生ではなく、北欧から来た金髪碧眼の留学生であったなら、ティーパーティ運動はあそこまでの広がりを持っただろうか。そして日本では生活保護バッシングと在日韓国・朝鮮人へのヘイト・スピーチが結びあっている。


均衡財政が「信仰」の域にまで達していることは世界の多くで見受けられる。手段と目的を取り違え、目的があって均衡財政を目指すのではなく、均衡財政そのものが目的と化してしまっている(「手術は成功しました。患者は死亡しました」というのは最早ジョークではない!)。

ギリシャ問題にどう方をつけるのかについては様々な意見があるが、ギリシャの債務問題を倫理の問題として考えるなと警告する経済学者もいる。裏をかえせば、ドイツを中心にこれを「倫理」の問題であると考えている人が少なからずいるということだろう。

もちろん財政赤字を野放図に認めていいと考えている人は誰もいないのだろうが、それが合理的な理由に基づくものなのか、それとも「倫理」の問題として、「理屈」を超えて守らねばならないものだと考えているかの差は大きい。しばし持ち出される国家財政と家計のアナロジーは少し冷静になって考えれば成立しないことがわかるはずだが、これを「倫理」の問題であるという考えに凝り固まっている人には通用しない。

均衡財政への「信仰心」が生まれる背景にはこの「倫理」の存在があるのだろう。
財政赤字を垂れ流すのは非倫理的な行いであり、「犠牲」を払おうとも均衡財政を達成することこそが「倫理的」行動なのだという心理が働いているのではないだろうか。そしてこのような「倫理観」は、「リベラル嫌い」の人間にとって都合のいいものである。
「貧乏人など知ったことか」という人を「倫理的」であると考えることはさすがにためらわれるのだろう。しかしこれが「努力を怠り、身の程知らずの生活をしておきながら、困ったら国家にすがるような人間を助ける必要があるのか」とすりかえれば、たちまち再配分政策の否定は「倫理的」なものとなってしまう。

「信仰心」や「倫理」(もちろんあくまで括弧つきの)の問題であるということは、ここには最早合理性は存在しないことになる。共和党が自分の首を絞める人種差別路線をなかなか修正できないのも、これらの「信仰心」や「倫理」のなせる業だといえるだろう。

アメリカ大統領選挙の報道で滑稽であったのは、「ロムニーはビジネスマンだから経済がわかっている」、「経済に強いロムニー」といった「町の声」や「識者」のコメントである。
素人目にもロムニーの経済政策は支離滅裂なものと映ったし、共和党が主張するような富裕層への減税とその埋め合わせとして極端な緊縮策が取られれば、アメリカ社会は混乱に陥り、むしろ経済の足を引っ張ることが予想される。

一般的には民主党は労働者の味方、共和党は経営者の味方と見なされているのだが、現在の共和党は金持ちの味方ではあっても経営者の味方とはもういえないのではないだろうか。
均衡財政への「信仰心」は金本位制的な世界観と結びつく。そして共和党の一部には金本位制への復帰という声すら存在するのである。

「労働者の味方」であるアメリカの民主党やヨーロッパの左派政党は、失業者など社会的弱者のためにも経済を上向けようと緊縮策に反対し、金融緩和(当然金本位制とは相容れないものである)にも親和的である傾向にある(ここらへんは松尾匡氏の「欧州左翼はこんなに「金融右翼」だぞ~(笑)」を参照)。
一方「経営者の味方」であるはずの共和党は経済の先行きよりも「信仰心」や「倫理」に基づいて緊縮策を行い、金融緩和には反対の姿勢を取るという、一種の「ねじれ」が生じている。
ロムニーは当選すればFRBのバーナンキ議長の再任を認めない方針だったが、バーナンキが高名な経済学者であり共和党員であったことを考えれば共和党の抱えるこの「ねじれ」の深刻度合いがわかるだろう。


日本においては、左派的な人が強く金融緩和に反対することがよく見られる。マイルドなインフレ状態にすることで安定的な経済成長を図るといういわゆるリフレ政策は、資本主義をよりうまく機能させる効果があるといってもいいだろう。こう考えると、日本の左派が金融緩和に反対するというのは、左派における反資本主義的エートスを考えると「筋が通っている」とすることができるのかもしれない。もちろんこれは間違った筋の通し方であり、資本主義を打ち倒して新たな経済システムを作り上げるという現実性に乏しい「理想」のために、目の前の苦しんでいる人を見殺しにしていいのかという指摘に、日本の左派は反論できるのだろうか。

日本では政治家レベルでは主に右派的によって積極的な金融緩和が提唱されている。では日本の右派政治家は「信仰心」や「倫理」の問題から逃れることができているのだろうか。


というあたりでその2に続く。
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佐藤太郎(仮)

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