再配分と「倫理」、そして民主党の崩壊について その2

その1の続き。


自民党は民主党政権の方針であった子ども手当、高校無償化、高速道路無料化なとをとりわけ厳しく批判した。ここには自民党の「一貫した姿勢」がある。それは何かといえば、現金給付型の再配分は認めないということだ。ではなぜこれを認めないのかといえば、そこには「利権」が生まれないからであろう。

欧米の右派政党と比べて自民党の政策の特徴は、「国土強靭化」と称する大型の公共事業が含まれていることである。「公共事業」が、とりわけ日本では再配分という性格も持つことは明らかである。では自民党は再配分政策に積極的なのであろうか。率先して生活保護バッシングに加担していることからもわかるように、そうではないだろう。

自民党という政党はもともと、戦前回帰型の極右からほとんど社民主義者といってもいいような人まで、共産主義・社会主義者でなければ何でもいいという、「鷹揚」ともいえる面を持っていた。
日本において政権交代が起こらなかった理由は様々に分析されるが、その一つに自民党は右派政党でありつつも同時に再配分政党でもあったというものがある。有権者からするとその「鷹揚」な自民党を政権から降ろす動機が生まれにくかったのである。

自民党には確かに極右勢力は存在していたが、多くの場合これらは傍流の「ガス抜き」要員でもあった。そして戦前からの「革新官僚」の流れをくむ勢力を含む官僚出身議員と、田中角栄に代表されるようなポピュリスト(大衆迎合主義的でもあり人民主義的でもある)とが対峙し、これら三者が権力の座に居続けることによって利権を分け合うということで緩やかな連帯をしていた(この三者の要素が一人の政治家の中に溶け合ってる場合すらあった)。

かつての自民党を一言で表すなら、権威主義的パターナリズムというところであろうか。住民の政治参加や情報公開などには極めて否定的であるが、同時に「民を食わせていく」ということへの責任意識も持っていた。
地方選出議員が地元のために都会から予算をぶんどってくることはパターナリズム的再配分政策であり、またそれこそが利権=票にもつながり、自民党の力の源泉でもあった。

「かつての自民党」と書いたが、現在の自民党はここからパターナリズムが消え、ただの権威主義政党になっているといっていいだろう。現在「かつての自民党」を最も想起させる政治家は亀井静香かもしれない。亀井はイデオロギー的には極右といってもいいほどであるが、同時に生活保護バッシングなどには加わらない。一方で石原慎太郎との新党を画策し、また一方では経済政策や再配分政策では左派と見間違えるような態度を取ることもある。これは亀井が分裂しているというよりも、自民党とはかつてはこういうものであったということだろう(ちなみに亀井は官僚出身でもある)。

現在の自民党の姿を最もよく表していると思えるのが、生活保護の「現物支給」という発想である。これを聞いた当初は、アメリカのフード・スタンプのようなものをイメージしているのかと思ったが、どうやら本当に「現物」を支給する気でいる議員もいるようだ。
まず合理性という点でこれは全く愚かなことである。現物支給を実際に行うためにかかる手間暇を考えると、現金給付よりはるかに諸経費がかさむことはすぐにわかる。そしてワタミが舌なめずりして「現物支給」を待ちか焦がれているように、現金給付と違って様々な業者を「通過」することになる。これはその業者にとってはおいしい商売であり(「安定した顧客」を開拓できる!)ここに当然利権が生まれることになる。
ここにあるのは、一つには「非倫理的」存在である生活保護受給者へ「懲罰」を加えたいという願望であり、同時に利権も確保したいということであろう。

現在の自民党は心情的には欧米の右派政党と同様に(いや、それ以上に)、明らかに再配分政策そのものに否定的であり、これは合理性というよりは「信仰心」や「倫理」が勝っているといっていいだろう。ではなぜその自民党が「国土強靭化」などというものを持ち出すのかといえば、体質としてのかつての自民党から抜け出すことができないためだろう。利権=票のワンセットは地方においては公共事業という形で実現されていたが、その図式が崩れた後の新たな票田を開拓することができないためにこのような「奇怪」な姿をとるしかないのだろう。


では日本の民主党における再配分政策の位置はどこにあったのだろうか。
しばし「民由合併」後の小沢一郎は変わったといわれる。かつては「消極的な自由」(もっといえば「ネオリベ」)の信奉者であったはずの小沢が再配分を重視する「積極的な自由」派へと「宗旨替え」したかのような政策を取ったためである。もともと小沢は人間としても政治家としてもある面では近代的であるかと思えばまた別の面ではひどく前近代的な言動を取ることがあり、これこそが好意的にしろ否定的にしろ小沢の極端な評価に結びついているのでこのような矛盾は驚くに値しないといえばそうである。小沢の「宗旨替え」については「裏切られた」と感じる人右派から「政局優先のただの方便」と警戒する左派までさまざまだ。

しかし、「変わった」のは小沢だけなのであろうか。
時計の針をもう少し戻すと、小泉政権が誕生した時、当時民主党代表であった鳩山由紀夫は小泉にエールを送っていた。その他にも「小泉ブーム」真っ盛りのころには「小泉さんはウチが言っていた政策をやってるだけだ」というような愚痴をこぼす民主党議員もいたように記憶している。
具体的、個別的な政策というよりはイメージとしての小泉政権を表しているのは、「聖域なき構造改革」という掛け声や公共事業の削減に代表されるような、これまでの再配分政策からの大幅な転換であったといっていいだろう(亀井が小泉体制下の自民党を離れたのは示唆的である)。そしてこのような小泉自民党にエールを送っていた当時の民主党は、必ずしも再配分重視型政党ではなかったといっていいであろう。

90年代における日本の「リベラル」(あるいは政権を担いうる非自民勢力と言い換えてもいいかもしれない)にとって一つのキーになっていたのが「無駄な公共事業の削減」という言葉であった。
これは完全な「同床異夢」であった。ある勢力にとっては、公共事業を通しての再配分はロスが多いうえに偏ってしまうため、もっと透明にして公平な再配分政策を行うべきだという主張となる。またある勢力にとっては公共事業を通しての、つまり都市から地方への再配分を否定するという主張であった。このような二つの流れは「野合」したというより、当人たちにとって、そして日本の多くの人にとって区別がつくものではなかったのである。

なぜそのような区別がつかなかったのかといえば、「一億総中流」という幻想が90年代の日本においてはまだ保たれていたために、失業や貧困といった問題を直視することがなかったためであろう(当時の日本に貧困が存在していなかったのではなく、政治的イシューになるほどの問題であるとは多くの人が認識していなかったということである。「日本ではどれほど貧しくとも餓死は起こらない」ということを、左がかった人を含めて多くが共有していたのではなかっただろうか)。

残念ながら、現在でも日本の再配分重視の左派の中には貧困の問題を直視しない人が少なからずおり、また直視したとしても現実的な解決策からは遠くにいる人が多いのが現状である。欧米の左派が失業や貧困問題の解決のためにも反緊縮、親金融政策で経済成長を図るという傾向にあるのと比べると、日本におけるこのような政治勢力は皆無といっていい。

皮肉なことに、「同床異夢」であった民主党を再配分型政党へと舵を切らせたのが他ならぬ小泉政権であったのだろう。「 無駄な公共事業の削減」という対抗軸が無効になったために、新たなアイデンティティとして再配分政策の重視という方針が強まっていく。しかし、もちろんのことながら民主党の政治家の全てが心から「 宗旨替え」したわけではなかった。「政局的方便」として「利用」しただけだった議員が大半だったといってもいいだろう。このような「方便」は民主党を離れた小沢にとってはまだ有効ではあるが、民主党に残った再配分に否定的な政治家にとっては最早奉じる必要のないものである。そのあられもない本音が醜悪にもむき出しになったのが生活保護を「事業仕分け」にかけるという行いであろう。そして民主党内に残る再配分重視派はこのようなことを許してしまった以上、何を言おうとも説得力を持たなくなってしまった。

おそらく、前回の衆院選挙で再配分重視政党としての民主党に期待した人ほど、野田体制に対する不満は強いことだろう。
「同床異夢」であった民主党は薄い漆喰によってかろうじて再配分重視政党としての体面を保っていた。そのもろい漆喰を破壊しつくし、再配分否定路線への「先祖がえり」を許したのが管直人である。再配分重視政党としての民主党に期待し、なおも民主党支持に留まっている人の中には管に対する未練を捨てられない人がいる。しかしこのような人は野田政権生みの親が他ならぬ管であり、その後も一貫して野田体制を支持しているということから目をそらしているのではないか。管こそが、再配分重視型政党としての民主党の短い命を終わらせた張本人といっていいのではないか。


日本未来の党が選挙を目前に控えた緊急避難的なものであることを否定できる人はいないだろう。未来の党を支持、または期待する人々は一つには原発政策があり、一つにはそこに参加する個々の政治家に惹かれてという人が多いのだろう。そしてまた、自民、維新、民主への対抗として新たな再配分重視型政党(の少なくとも足がかり)として期待する人もいるようである。
ここでは党としての方針というものは求めるのは無駄であろうから、代表の嘉田由紀子の発言に注目してみたい。

嘉田は先日行われた討論会にて(こちら)こう言っている。「 日本未来の党は、現状における消費税増税には、凍結でございます。まず、不況下における増税により、より経済が悪化するということがございます」。ここまでは個人的にも異論はない。しかしそれに続けてこう言っている。「今やるべきことは歳出を徹底的に削減をし、無駄をなくすことでございます」。これは緊縮財政とどう違うのだろうか。

僕には嘉田が再配分にどういったスタンスなのかがよくわからない。確かに未来の党の「公約」には再配分重視のような政策が含まれている。一方で嘉田は「子ども手当て」について「子育て応援バウチャー」で支給したいとも述べている(こちらを参照)。これが具体的にどういったものを指すのか不明だが、一般的にはバウチャーという形での支給というのは「似非自由」である「ネオリベ」的政策として左派は嫌う傾向にあるだろう。

これらの嘉田の発言は、90年代以降の日本の「リベラル」を強く連想してしまう。主観的には再配分に必ずしも否定的なのではないが、そこには「つけ込まれる要素」が多々あり、仮に政権を取ったとしても(仮定の話ですから)、とりわけ財務官僚からの揺さぶりの前には完全に無力であろう。
一言でいえば、時計の針を10年戻してしまったようにしか思えないというのが正直なところである。


もっとも、その時計の針を10年戻してしまったような人物が代表を務める政党が対抗しようとしているのは、時計の針を100年戻そうとしている、いや近代という時計すら破壊してしまおうという勢力であるというところに、極右だけは絶対に認めないという最低限のコンセンサスすら得られない日本の暗い状況が象徴されているのだが。

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佐藤太郎(仮)

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