『近代日本の国家構想』

坂野潤治著 『近代日本の国家構想』




本書が文庫化されたのは2009年、「岩波現代文庫版あとがき」にはこんなことが書かれている。


二大政党制の下での社会的経済的不平等の是正(今日の言葉で言えば「格差是正」)に政党として本気で取り組んだのは、昭和初年の民政党左派であった。彼らはかつてイギリスの自由党が「無産階級の為に」努力したことを模範にして、自由主義の大政党たる民政党は労働組合法や小作法の制定につとめるべきだと主張した(第四章第一節)。
 「前途多難」という留保をつけながらも、一三年前の本書が岩波現代文庫に収録されようとしている二〇〇九年の日本では、明治の福沢諭吉、大正の吉野作造、昭和の立憲民政党左派らがめざしたものが、実現の入口にさしかかっている。総選挙が本書刊行の前になるのか後になるのかは分らないが、今回の選挙を機に二大政党制は日本政治の慣行となっていくことは間違いないと思われる。
 明治の福沢諭吉の夢の方はほぼ確実に実現すると思われるが、大正の吉野作造や昭和初年の民政党左派が主張した「格差是正」が、これから始まる二大政党時代にどの程度真剣に取組まれるかは、いまだに未知数である。二大政党慣行が国民に選択の自由を与えることは確かであるが、選択された政権が本気で「格差是正」につとめる保障は、いまだに存在しないのである
(pp.285-286)。


ここでの「間違いない」や「ほぼ確実に実現する」という言葉がわずか三年後にこれほど虚しく読まれることになろうとは、著者ならずとも予想していなかったことだろう。
本書の第四章を読んでいると、民主党政権がなぜあそこまでの惨状を呈してしまったのかの予言であるかのように感じてしまった。その原因を一言で言うならば、民主党は歴史から学ぶことがなかったのである。


1931年に成立した政友会内閣について、ある穏健な労働組合は「社会政策絶望の時代」と呼んだそうだ。このような「大正デモクラシー」とは「無縁」の内閣が成立した背景には、民政党の失政があった。
「民政党の財政金融政策が同党の「民本政治」と矛盾したのに対し、政友会の積極財政論には、同党の反動性を償うだけのもの」があった(p.233)。
民政党は事前の予想に反して1930年の総選挙で大勝してしまっていた。「不況下で金解禁断行のための緊縮財政を行った民政党の大勝は、同時代の観測者をも戸惑わせるもの」であったが、これこそが「民政党内閣崩壊の遠因」となるのである。
政友会は「金解禁の功名」によって「国民を悲観絶望の淵に沈めた」と民政党を批判し、またロンドン海軍軍縮条約の調印をめぐって海軍右派、枢密院右派らも民政党批判を強めた。さらには「民政党内閣の社会政策に強い期待をかけていた社民勢力」らの期待をも裏切るものであり、「都市部における失業の増大と農村不況の深刻化を前にしては、合法無産政党もいつまでも民政党の社会政策に期待をかけつづけてはいられなくなっていた」。

一方で財界は1930年の選挙で圧勝した民政党に対し「不況の克服をいっそうの合理化で行うこと」を要求していた。民政党にとって「最後のチャンス」は31年4月に成立した第二次若槻内閣であり、内相の安達謙蔵は「経済政策の転換を強く唱え」ていた。しかし「民政党の主流派は同内閣成立に際して、むしろ逆に財界至上主義的態度を強めて」しまう。「第二次若槻内閣成立を祝して『民政』誌上に載せられた財界人の声は、労働者の失業問題にも、農民の困窮にもまったく同情を示さないものであり、金融界の代表たちは、緊縮財政の堅持だけを強く要望してた」(p.236)。

さらに31年9月には満州事変が起こり、苦境に立たされた民政党は政友会との連立を模索するが、犬養政友会総裁は「民政党との連立を拒否して、不況対策をスローガンに民政党と対峙」するこを選ぶ。この背景には陸軍青年将校の支持もあった。

民政党は金本位制への復帰にこだわり、本来の「民本政治」を棚上げにしてしまったが、一方の政友会の積極策は「農民や労働者の間にも支持者を拡大していった」。
「若槻内閣の後を襲った犬養政友会内閣は、即日金輸出の再禁止を断行した。翌日には株価は暴騰し、立会停止がなされた。金本位制停止は対外為替の暴落をもたらし、円安状態での輸出の増大が生じた。このような景気回復の兆候を利して、政府は一九三二年一月、衆議院を解散し、「犬養景気」一本槍で総選挙を戦った。満州事変は関東軍だけの責任ではなく、不景気に悩む国民世論も、不況からの脱出を期待してこれを熱狂的に支持したといわれているが、総選挙での争点をみる限り、国民は、景気の回復は満州事変によってではなく、金輸出の再禁止によってもたらされることを知っていたように思われる」(p.238)。

政友会にとって満州事変に関する政策は「刺身のツマ」といったものであり、民政党内閣退陣の最大の原因は満州事変ではあったが、「総辞職後の総選挙で民政党が攻撃されたのは、井上財政であって幣原が外交ではなかったのである」。

「景気回復・失業救済・農村窮乏打開を求める国民にとっては、五・一五事件による犬養首相の非業の死で政友会内閣が総辞職した後に、再び政党内閣ができるかどうかは、さして重要なことではなかった。高橋是清が蔵相に留任することが、より重要であったのである。民政党内閣の崩壊は幣原外交と井上財政の終焉を意味した」(p.241)。


ざっとまとめると、民政党政権は「民本政治」を反故にして金本位制復帰のための極端な緊縮財政に走り、その結果本来の支持層は離反したものの政策を修正することができなかった。財界、金融界はこれを歓迎し緊縮策を煽り、景気回復は「合理化」によって進めるとして困窮者を踏みつけにしていた。右派と取り結んだ政友会は景気回復を最優先課題とし、金輸出を再禁止すると一気に円安にふれ株高となり、この余勢を駆って選挙で大勝。国民は不景気によってやけになって右傾化したというよりは目の前の景気を優先させたのであった……って、完全にデジャヴュとしか思えない展開。

後の民主党政権がこの第四章で描かれた歴史的経緯にだけでも真剣に向き合っていたなら、現在のような惨状を呈することにはなっていなかっただろう。まあ民主党だけではなく財界も相変わらず無反省であるし、なによりメディアの人間も「現在の日本の空気は戦前に似ている」などと言うのは結構であるが、何によってその空気がもたらされたのかを考察することは放棄してしまっているとしか思えないのですよね。


本書は1871年の廃藩置県から1936年の二・二六事件までを扱ったもので、もちろん第四章以外も読みごたえがある。徳川時代末期からあの破局に至るまで、日本にはいくつもの可能性があったし、その可能性があのような形に収斂していってしまったのはなぜなのかを考えるうえでも非常に有益であろう。

「保守派の立憲制のモデルはドイツであり、革新派のそれがフランスかソ連であったとすえば、無視されがちだったのは、イギリス・モデルの中道派であったともいえよう」(p.vii)と「まえがき」にあるように、本書の中心人物となっているのは井上馨、福沢諭吉、徳富蘇峰、吉野作造、松岡駒吉といった「それぞれの時代のイギリス政治をモデルとみなしていた人々である」。

「大体の枠組みとしては、イギリス・モデルの中道派を軸に、立憲政体構想をめぐる保守・中道・革新の三極対立としての六五年間の政治史を描くことが、本書の課題であると言ってもいい」とあるが、著者がなぜこのような本を記したのかについてはこう説明がしてある。

中道派を軸に戦前日本の政治史を分析するもう一つの理由は、中道派というものが、左右の両極端に対するアンチにすぎないのか、あるいはそれ自体で自立した政治的立場でありえるのかを知りたいという、著者の最近一〇年の個人的関心にある。中道派がそれ自体で自立した政治的立場であれば、社会主義体制の崩壊は、彼らにとって悲しむべきことではないはずである。いよいよもって自己の中道派的立場に自信を持っていいはずである。しかるに、この一〇年間の日本で起こっていることは、中道派の自信喪失であり、衰退であるように思われる。社会主義が居なくなったのに続いて、中道派もいなくなったら、日本の政治はどうなるのだろうかという不安が自分の歴史分析にもあらわれて、三極構造のうち真中に関心が向かってしまったように思われる(p.Vii)。

この「まえがき」が書かれたのは親本刊行時の1996年のことであります。

さて、歴史に学んでいないのは民主党や財界やメディアだけのことなのかといえばもちろんさにあらず。やはり「まえがき」に、第一章で分析される1873年の木戸孝允の意見書が引用されている。
「文明ノ国在テハ、君主アリト雖ドモ基制ヲ擅ニセズ、……有司タル者も亦一致協合ノ民意ヲシ、……人民猶基超制ヲ戒メ、議士ナル者有テ事毎ニ験査シ、有司ノ意ニ随テ臆断スルヲ抑制ス。是政治ノ美ナル所以ナリ」。
今の自民党の連中の憲法、政治観は木戸以下なのではないかというあまりに哀しすぎる疑惑も、本当に深刻な話であります。




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