ナボコフとヴォネガット

年末年始だからといって大掃除をするという習慣もないのだが、ちょっと探し物があって絶望的なほどに収拾がつかなくなっている本の山をあさっていると、「この本こんなところにあったんだ」というものもあれば、「こんな本買ってたっけ?」みたいなものも結構あったりする。

すっかり忘れていたのだが、本の山の奥の方からナボコフの『ロリータ』のペーパーバックが出てきた。そういえば10年くらい前(?)に移転前の渋谷のブックファーストでやってたセールでどうせ読まない(というか読めない)けど一応ってことで買っておいたことを思い出した。昔のあのブックファーストは結構好きだったんだけどなあ。それにしてもなぜ人目を忍ぶような場所に置いていたのか、自分よ……。

そういえば昔とある授業で、母語以外で執筆した作家という話題でナボコフの名前が出た時に、隣の女の子がナボコフを知らなかったらしく「ナボコフって誰?」と訊いてきたので「『ロリータ』の人」と答えたらなんか変な空気になってしまったことも思い出してしまった。まあ発表当時はそういう目で見る人が多かったわけで、その子の反応もあながち間違いとは言えないのかもしれないけど。

さて、探し物というのはVonnegut In Americaのこと。このヴォネガット研究本を昔古本屋で買っていたのだが、読まずにそのままほっぽり出しているうちに行方不明になってしまっていたことをこの『カート・ヴォネガット』を読んでいて思いだしたのである。ごそごそしているうちになんとか無事発見。

ナボコフをめぐる記憶がよみがえりつつVonnegut In Americaをパラパラながめていたら、なんとWilliam Veederという人の‘Technique as Recovery’という『ロリータ』と『母なる夜』を比較する論文が収録されていた。おお、シンクロニシティよ!

ざっと読んでみのだが、確かに『ロリータ』と『母なる夜』って似ている要素が多い。ともに獄中手記に編者の序文がつけられるという入れ子構造になっている。また「Confession」がサブタイトルに使われている。ハンバート・ハンバートもハワード・キャンベルも共に「信用できない語り手」であるというのもその通りだが、ハンバート・ハンバートとハワードとヘルガの関係にH・Hの反響を見るのはさすがに強引なような気も。
Veederはヴォネガットが『ロリータ』を読んでいたことは間違いないだろうとしつつも、直接的に影響を与えたというよりも、むしろそれゆえに浮かびあがるフィクションにおけるテクニックの差異に注目しようとしている。
『母なる夜』をこの視点から読んだことはなかったもので、これを頭に入れつついつか読み返してみるか。


Vonnegut In Americaにはヴォネガットの幼少期からの写真も多数収録されている。子どものころはなかなかの美少年ではないですか。
村上春樹の『羊をめぐる冒険』には「鼠」が髭をはやしていると聞かされた「僕」が驚くという場面がある。今まで髭がなかった人が髭をたくわえると違和感があるのはそうなのだが、違和感という点では髭のイメージが強い人の髭なし姿の方が強いかもしれない。
66年にアイオワ大学で撮られた写真もあるが、これってそう言われなければヴォネガットだとわからないだろう。ちなみにこの写真のクレジットはLoree Rackstrawになっているが、最近回想録を書いたこの人は当時の教え子であり愛人だった人ですね。
69年の写真では髭があるが、こうなると一気に「ヴォネガットらしい」イメージになる。70年ころにハーヴァードで撮られた髭&眼鏡姿で完全にヴォネガットの完成という感じ。77年の孫を抱く写真がこの本刊行時の「現在」だけれど、60年代半ばから十年ほどで一気に老けたような感じがする。この間ベストセラー作家になる一方で精神的にはいろいろ大変だったせいなのかな。逆にこのころの写真のイメージが亡くなるまで保たれているので、老け顔の人は老けないというのを実践した形になっているのかもしれないけど。


なお前の持ち主は一つの章にだけ細かく下線を引いたり印をつけているが他の章は一切手付かずだったりする。ここだけ狙い撃ちしたのかな?





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