『資本主義が嫌いな人のための経済学』

ジョセフ・ヒース著 『資本主義が嫌いな人のための経済学』




タイトルからすると左派の経済学嫌いについての本だと思われるかもしれないが(原題ではこれはサブタイトル)、本書は2部構成となっており、第1部は「右派(保守、リバタリアン)の謬見」、第2部は「左派(革新、リベラル)の誤信」とあるように、左右両派をばっさばっさと斬りまくっている。とはいえ、やはりその主な狙いは経済学そのものに忌避感を抱く左派への批判にあるといっていいだろう。

ヒースは若かりしころの自身が素朴な左派であったことを振り返っている。では「転向」したのかといえば必ずしもそうではないだろう。
ヒースの現在の立場は、おそらくはクルーグマンあたりに近いものだろう。資本主義そのものを否定するのではなく、市場の重要性を認めつつも適切な規制は必要であり、また再分配政策も積極的に行うべきだが、それは経済学的な合理性を無視して教条主義的に「倫理」を優先させるべきではないといったところだろうか。

もっともクルーグマンはよりリベラルな政治姿勢を鮮明にして(意図的に)右派を挑発する傾向もあるが、ヒースは本書を読む限りではもっと冷めているようにも思える。この差は二人の専門領域によるのかもしれない。少なからぬ左派が経済学をうさんくさいもの、もっといえば唾棄すべきものと感じていることだろう。このような感情は経済学そのものというよりは経済学者のイデオロギー的偏向によるご都合主義的な言動によってもたらされているケースが多い。ゆえにクルーグマンやスティグリッツといった政治的にリベラルな経済学者はリベラル派の信頼を勝ち取るためにもより政治的にリベラルな立場を鮮明にすることで、経済学そのものへの不信を払拭しようとしていると考えられなくもない。

しかしヒースは経済学者ではない。専門は哲学であり、数学は「高校レベルで止まっている」とあるように、本書には経済学を扱いながら数式は登場しない。経済学を嫌うあまりに不勉強にして、その結果として不合理な主張をする左派に呆れているが、だからといって彼らから経済学を守ろうという動機もない。そこらへんがリベラルな経済学者より「冷めている」ように僕には映った原因かもしれない。もちろん左派は救いようがないと見限っているのではなく、最も主張したかったことは、好むと好まざるとにかかわらずリングとルールはすでに設定されているのであるから、そこで勝つためにはまず相手をよく知らねばならないということだ。


「経済学は重要だと思う――資本主義の批判者にも支持者にとっても同様に。そのうえ、資本主義の批判者はお世辞にも経済学をきちんと学んできたとはいえない。マルクスは当時の「主流派」経済学に精通していたのに、マルクスの影響も一因とはいえ、同じことが言える左派または「急進的」理論家はほとんどいない。この資本主義なるものは全体がじきに消えてしまうだろう、だからレオンチェフ型生産関数や分離定理など、ミルクの価格を理解するのに不可欠だと経済学者が主張する仕掛けについて学ばなくてもいい、と思っていたのだ」(p.5)。

この結果として二つの問題が発生する。一つは「左派のほとんどが、保守派が自説の支持のために決まってもちだすデタラメな論法を見抜け」ず、そのため「「経済学」が魔法の帽子よろしく、右派がたまたま気に入った政策への支持をとりつけるため、それが経済学の諸原則に従っていない場合にも、利用される」という結果に終わってしまうことだ。

第三章ではトマス・フリードマンが『オリーブとレクサスの木』などで繰り広げる企業と国家のアナロジーが成立しないことが経済学的観点から批判されるが(トマス・フリードマンの主張は日本風にいえば「シバキアゲ構造改革主義」といったところか)、左派の多くはこのような批判を繰り出すことができないためにピント外れの方向に批判が向かってしまい、有効な攻撃を放つことができない。
ヒースは第1部でトマス・フリードマンをはじめこのような右派の恣意的な主張を経済学的見地から批判している。


問題の二つ目は、「あまり成功しそうになく、恩恵を施したい相手に役立ちそうもない計画や政策の宣伝だか扇動だかで、善意の人に数限りない時間を無駄にさせてしまうこと」である。

第7章で取り上げられる電気料金や家賃といったものの価格統制は、結果として「貧しい人に一ドル届けるごとに金持ちに二ドル与えることが必要となる社会政策」であったりしてしまう。
その例が「フェアトレード」をめぐってだろう。いわゆる「フェアトレード」には二つの種類があり、一つはスティグリッツとチャールトンの『フェアトレード』にあるような、「「倫理的」なサプライチェーン管理」を求め、「途上国の生産者が世界貿易システムに参加しようとするときに決まって出くわす不都合を取り除く」といった「公正」さを求めるものである。そしてもう一つが輸入する財を先進国は市場価格より高値で途上国へ払う道徳的義務があるとするものである。ここでは値崩れを起こしたコーヒー豆を買い支えようとしてかえって状況を悪化させてしまったことなどがあげられているように、後者の「フェアトレード」はたとえ「善意」からくるものであっても、結果的に不都合や混乱をもたらしてしまうものであらば、意味がないばかりかかえって害悪ですらある。


本書のエッセンスを最もよく表しているのが第3章で取り上げられる、1956年に『レビュー・オブ・エコノミック・スタディーズ』に発表されたケルヴィン・ランカスターとリチャード・リプシーによる「次善の一般理論」という論文をめぐってだろう。
この論文は「レッセフェール(自由放任)資本主義への最大級の強力な反対論を左派に与え」ることになった……はずであった。
この論文発表後、「経済学会はこぞって被害対策モード」に入り、リプシーの推定では「反論しようとする二〇〇ほどの論文が発表」され、中には著者たちの人格を攻撃するようなものもあったという。
しかし「パニックはほどなく鎮まった。結局のところ心配するほどのことではないと、右派は気づいた。その理論に欠陥があったのではなく、左派の誰一人として『レビュー・オブ・エコノミック・スタディーズ』を読んでいないようだった」ためだ。
はたしてこの論文がそれほどの破壊力を秘めていたのかを僕には判断することはできないが、少なくとも左派は右派を動転させた有力な武器をみすみす見逃してしまったことは間違いないのだろう。


僕自身は、左派が右派に勝つためには正しい勝負の仕方を身につけねばならないというヒースと立場を共有している部分は多いとは思うのだが、それでも本書において違和感を覚える部分もいくつかあったのも事実である。例えば貧困問題についての取り上げ方は偏っていて一面的すぎるという印象は否めないし、それゆえに左派にとってはここにまさに「経済学の限界」を見てしまうかもしれないという危惧の念も起こる。
また「ナオミ・クラインとアヴィ・ルイス製作のアルゼンチン労働者協同組合を描いたドキュメンタリー『ザ・テイク(工場奪取)』」にいささか揶揄的に触れていることに代表されるように、このよな「善意」を愚かな教条主義や根拠のない楽観主義、または単なる不勉強としているかのような部分に感情的反発を覚えてしまう人もいることだろう。
そしてもちろん、右派的な立場の人にも本書の右派への批判に対してさまざまな異論、反論があることだろう。

このような左右両方からの反発こそ、経済学が経済学たるゆえんなのかもしれない。
貧困問題を扱う際に、ヒースは貧困に陥った人にも原因があるかもしれないということを左派がタブー視してしまうことに触れている。ヒースはそのような人に「自己責任」を求めるのではなく、たとえそうであろうとも再分配政策は必要であるが、同時に倫理的教条主義から離れての制度設計が必要であるという立場であろう。このような考えは経済学的には正しいとしても、(僕自身を含めて)左派にとっては気持ちのいいものではない。

また「左派の側から見て、現代の保守主義について理解しがたいことの一つに、右派の多くがみずからの政治観を私欲の表明だけでなく、もっと幅広い道徳上の責務から生じたものと考えていることがある」(p.135)とあるように、右派における「自己責任」論に代表される再分配政策の否定は一種の「道徳性」、つまり「倫理」の問題ともなっている。裏を返せば右派による右派的な主張を道徳的根拠を持ち出さず、経済学的論理のみを根拠とすることは理論的のみならず精神的に耐えられないということなのかもしれない。ここらへんは、しばし少なからぬ経済学者が、門外漢からすると奇妙(というより異常)な全能感に支えられているように映りがちであることとも関係があるだろう。
左派のみならず、右派にとっても経済学というものは必ずしも心地いいものではないのかもしれないし、であるからこそ、そこをごまかすためにかえってこのような高揚感に陥りがちになり、それゆえにまた、ヒースが本書で批判するような謬見がはびこることにもなっているのだろう。

ヒースは「ハッピーエンドが好き」だとしながらも、「本書にはハッピーエンドがない」としている。言葉を換えれば、「経済学にはハッピーエンドがない」ともなろう。
「私は資本主義を嫌う人に、もっと真剣に経済学を受け止めるよう促してきたが、それは経済学が貧困、不平等、社会的疎外などの問題に簡単な答を与えてくれるからではない。まったく逆である。経済学の研究は、善意の人たちが提案した簡単な解決法の多くがあまり成功する見込みがないと証明することで、しばし事態を紛糾させるばかりだ」(p.339)。

「エピローグ」にてヒースは労働者協同組合を取り上げている。ナオミ・クラインがこの問題を映画で取り上げたように、協同組合は資本主義への抵抗の橋頭堡として少なからぬ左派が期待を寄せるものであろう。しかし「成功した協同組合は時の経過とともに、資本主義企業そっくりになっていく傾向」がある(このあたりは松尾匡著『新しい左翼入門』でも取り上げられていた)。「十九世紀の社会主義者の多くが労働者協同組合の運動にひどく批判的だったのは、まさにこの傾向ゆえだった」のだが、「一〇〇年以上も大々的に論じ」られてきたことも、「左派の「労働政治イデオロギー」とでも呼ぶべきものに影響はほとんどなかった」のである。

「もっといい世界を望むのは結構なことだが、状況を改善する方法を見つけようとする人間にとっては、過去二世紀にわたる知的努力という莫大な投資をないがしろにしないことが肝心だ」(p.346)というのは一般論としては誰もが同意することであろうが、その結果として「ハッピーエンドがない経済学」を使わなくてはならないというのはやはり気が進まないことでもある。しかしそこから逃げている限りは、左派にとって勝ち目のない自己満足的世界観から抜け出ることはできないのだということを、ヒースは冷ややかに告げている。


本書には「カナダ緑の党」が、日本における「成長よりも成熟」そのままの論理で経済成長を否定し、資本主義を批判していることが取り上げられているが、日本の場合バリバリの左派や強烈なエコな人ならずとも、「中道」とされるような人すらもがこのような論理に染まってしまっていることを思えばさらに事態は深刻であろう。こういう人にこそ本書は読まれるべきなのではあるが、おそらく本書は最も読まれるべき人には届かないのであろうという暗い予感しかしないのであるが。


松尾匡さんの『不況は人災です!』は左派の立場からリフレ政策の必要性を取り上げたものだけれど、肝心の左派的な政治家やメディアの人たちが読んだりここから学んだという形跡がまるでなかったしなあ……。



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佐藤太郎(仮)

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