自由と平等

なんとなくハイエクだのフリードマンだのを読んでみたのでいくつか。

まずあらかじめ言っておくと僕はロールズ的な自由主義福祉国家を是とする者でありますので当然この両名に関しては点が辛くなります。

まずハイエクであるが、僕は経済学の知見などは持ち合わせていないので彼が経済学の中でどう位置づけられているのかはわからない。
ただ社会思想家として見た場合、単なる保守主義という以上の印象は抱けなかった。

ハイエクの特徴としては社会主義とファシズムとを別物だとせず、前者は後者へ至るのだという点にあるのだろう。雑にまとめると「計画」は抑圧へと至るというところであろうか。言葉を換えれば「理性」には限界があるということであり、これはまさに保守の真髄であろう。
正直に言うと、『隷属への道』などを読むと同意する点も少なからずあった。

ちなみに僕は自分のことを広義の意味での「左翼」と考えているが、一方で保守の主張するところの「理性の限界」ということも認めるものでもある。ではなぜ自分が「左翼」であって「保守」ではないのか、というと、一つには多くの自称保守に見られるご都合主義があまりにひどいためである。もう一つは理想への希求をやめた時点で社会は停滞すると思うからである。理想への希求は「信仰」とはまた別なものである。

「啓蒙」あるいは「文明」は野蛮に通ずる、と喝破したのがアドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』であったが、哲学的思考としてはこちらと比べるとハイエクはそれほど知的好奇心を呼ぶようなものではなかった。もちろん両者の関心領域は全く違うようなものであるのだろうが。

『啓蒙の弁証法』はナチズムを体験したユダヤ系のドイツ人であるアドルノとホルクハイマーの、身を切るようなジリジリとした緊張感に溢れた本だった(とか言って実は結構前に読んだのでかなり忘れているのだけど)。
ハイエクの『隷属への道』も、第二次大戦中にオーストラリア人であるハイエクが危機感の中で書いたものである。
しかしここからは切実さというか切迫感があまり感じられない。少なくとも2010年に読むということでは。

ハイエクはリバタリアニズムの始祖の一人に数えられる。ここで少しハイエク自身ではなくリバタリアニズムについて考えてみたい。
僕としてはリバタリアンというものは思考実験としてはそれなりに面白いものではあるものの、現実に援用するなど有り得ない思想であると思っている。
もっと言ってしまえば、社会主義が空論に基づくある種の「信仰」だとすれば、リバタリアニズムも空論に基づく「信仰」である。
まずなんといっても「私有財産」への「信仰」があげられる。
僕は「私有財産」とは「人権」などと同じように、森鴎外風に言うなら「かのようなもの」であると考える。実体があるものではなく、それがないよりはあると考えたほうがうまくいくための便宜的存在ではないのか。そこへの「信仰」を抱くことには非常に違和感を感じる。
もうひとつは「市場」への「信仰」である。「市場」が、リバタリアンやレッセフェール的経済人の発想通りに機能するにはかなり無理な前提を要する。人間とは欲深く、少なからぬ人間が底なしの欲望を抱く。そして人間とはしばし不合理な行動を取る。現実問題として、人間各々の能力にはかなりの差があり、また能力以前に完全に公平な位置からのスタートを切ることなどありえない。「市場」の万能性とはこれらのことがクリアされて初めて可能となる。

ハイエクに対して切実さや切迫感が感じられないというのは、「計画」を疑いつつも、自分が依って立つものへの疑いというものがないところにある。もちろんハイエクからの反論としては、当時はあまりに社会主義への「信仰」が高まったゆえにそちらを攻撃するほうが優先だった、ということが考えられるが。

さて、ミルトン・フリードマンであるが、こちらは社会思想として見れば劣化版ハイエクという感じである。
彼は経済的自由と政治的自由は密接な関係を持っていると主張する。
しかし彼は民主的に選ばれたチリのアジェンデ政権をCIAの支援を受けてクーデターで倒し、軍事独裁政権を築いたピノチェトに協力した。さらに彼の弟子である「シカゴ・ボーイズ」の南米での「大活躍」を見れば、政治的自由などに触れること自体が欺瞞にあふれていることがわかろう。

ここで考えなければならないのは、ハイエクやフリードマンを崇めるような人間が政権につくと、多くが経済的自由とは裏腹に国家主義へと、つまり政治的自由を抑圧するほうへ走るということである。
もちろんこれは偶然ではない。
上に書いたように「市場」は現実には万能に働くことはない。小数の富める者が度外れに利益を得て、その他の者が経済的に厳しい状況へ置かれる。それを「慰撫」するのが国家主義である。
ナショナリズムを高めることによって現政権への批判から目をそらすのである。
サッチャーにはフォークランド紛争が、レーガンにはソ連との戦いがあった。
さらにこれらの政権の共通点としてあげられるのが「バカを見るはずの人間が一番支持している」ということがある。ただしこれはイメージ先行であり、実態は必ずしもそうとは限らないので差し引いて考える必要がある。とはいえ為政者が「社会的弱者」を利用しようとしたことは紛れも無い事実であろう。
サッチャー政権やレーガン政権を支えたものの一つは人種差別である。サッチャー/保守党は移民を標的にし、移民が税金を食物にすると煽った。レーガン政権以降アメリカで言われた「福祉の女王」といってイメージされるのはゲットーの黒人のシングルマザーである。

リバタリアンとは実は国家主義者にして差別主義者である、とまとめるのは乱暴である。
ちなみにリバタリアンと国家主義とは本来は水と油でなければならない。
なのでここでは「俗流リバタリアン」としておこう。彼らが国家主義や人種差別に対して、社会主義への攻撃ほどの批判的視座を提供しないどころか、これらを煽る傾向があることは否定できないであろう。これは「俗流保守」と言い換えてもいい。上で「保守のご都合主義」と言ったのはこのことである。

ついでに付け加えるなら、古典派経済学の始祖の一人である「見えざる手」のアダム・スミスはただ「自由放任」を唱えたのではない。彼は道徳、あるいは倫理を重要視し、経済における弱肉強食の「万人の万人に対する戦い」などを求めたのではなかった。古典派や新古典派にはこの視点が欠けるか、あるいは妙な保守主義(日本ではやたらと『論語』を読めという経営者が多い、など)に流れる傾向がある。あくまで仮説、あるいは思考実験であるはずのものを現実に援用しようという悲劇はここから始まり、今も繰り返されている。

ただここで考えなければならないのは、フリードマンが唾棄するような人間だったとしても、彼の経済学における業績が全て間違っているということではないということだ。
現在日本の経済にとって最も深刻なのはデフレであり円高である。ここから抜け出すには金融政策以外にはないだろう。「左翼」の人は、しばしフリードマン/マネタリストを嫌悪するあまり、金融政策全般をも全否定してしまう傾向にある。
現実には現在純粋素朴なマネタリストやケインズ主義者などいないだろう。例えば日本にインフレターゲット導入をいち早く提言したのはクルーグマンであるが、だからといって彼をマネタリストに分類して一切無視すべし、など馬鹿げたことである。スティグリッツなども同様であろう。

結論めいたことを言うなら、自由を得るためには(ある程度の)平等は必要である。そして平等を実現するためには、「信仰」によるのではなく、プラグマティズムに基づく経済政策が求められる。
「成長か成熟か」などの、パッと見まともであるようで問題を何も解決しようとしない新手の「信仰」も要警戒である。



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佐藤太郎(仮)

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