『ロシアのスパイ』

奥武則著 『ロシアのスパイ 日露戦争期の露探』





日清戦争、そして三国干渉により日本のナショナリズムは一気に高まる。また三国干渉の一員であり、不凍港を求め南下してくることも予想されるロシアへの警戒と嫌悪もまた高まっていく。
日露戦争の前後、日本は「露探」の存在に熱病のようにとり憑かれることになる。露西亜の軍事探偵、略して露探。

木下尚江は「露探」を「毒語」だと評した。著者は木下の論旨をこうまとめている。「ひとたび「露探」と名指しされて批判を浴びたら、どんなに言葉を尽くして弁解しても手遅れである。親しい友人知己も助けてくれない。単に助けることができないだけではない。なまじ擁護する言葉を吐こうものなら、彼自身が「露探」の仲間とみられてしまうことを恐れている」(p.22)。


衆議院議員を辞任に追い込まれることになる秋山定輔に対して露探という言葉が最初に用いられたとする文献が多いが(これは秋山自身がそう語っているためであるのだが)、実際には長田秋濤が最初であったようだ。長田は「電報通信」(後の電通)に「露探」であると名指しされた記事が掲載されたため、執筆者の権藤震二を名誉毀損で訴えたのだが、これが無罪となることで逆に長田が露探であることが証明されたという受け止め方をされてしまった。この裁判の内容はかなり強引なものであったようなのだが、権藤が書いた記事は現在も発見されていないそうである。
この後、新進の新聞経営者であり政界にも進出した秋山に露探疑惑が向けられることになる。これには桂内閣を攻撃する新聞を発行している秋山を押さえこみたいという政治的謀略が絡んでいたようである。後の秋山の回想は自身の存在を大きく見せるためか、かなりの誇張が見られるようだが、しかしはっきりしているのは、「露探疑惑」は政治家にとっても、そして一般人にとっても致命的なものとなっていくということである。

対ロシアに備えて要塞が築かれた函館では、要塞地法により17人が退去命令を受ける。これらの人々は何らかの証拠に基づいてではなく、ロシア正教の司祭などロシアと関わりがあると見なされた人を予防拘禁的に退去させようとしたことが真相のようだ。ロシア正教の信者たちは厳しい目にさらされ、ニコライも苦悩する。
しかしまた、ニコライ堂は政府によって警護され、内務省や文部省はロシア人の身辺の安全を守るよう特別指令を出していた。「ロシア正教会信徒に対して「露探」疑惑を煽ったのは新聞であり、それに踊ったのはむしろふつうの人々だった」のである(p.207)。

日露戦争の2年後の1907年には、ついに前田清次が露探であるとして殺害される事件が起こる。前田は二葉亭四迷にロシア語を習い、ロシアでロシア人に日本語を教え、ロシアに帰化していた。このような「国際人」の行動は一般には理解されず、怪しげな人物として報道されていたのである。前田は殺される前に二葉亭に自身の潔白と新聞報道への抗議を伝えていた。
新聞は「露探誅せらる」という見出しを掲げ、前田が「露探」であるばかりか道徳的にも堕落した人間であったかのような報道を行い、あたかも被害者が殺されても当然であるかのような記事を載せた。この事件にも謎が多く、憲兵や新聞記者との関係も裏にあったようである。いずれにせよ多くの人は前田を怪しいと思っており、怪しいと思われた時点で文字通りの身の危険が迫るような状況なのであった。

この露探騒動のさなか、広島県警はある通達を出している。そこには新聞などに煽られロシア正教会を罵り信者を暴行するなどの事件が起きており、信仰の自由の観点からもこのような不心得者を取り締まるようにというものであった。日露戦争時に派出所勤務をしていた檜垣精一は「露探かもしれぬから注意せよ」という通報が多数寄せられたが、「神経過敏となれる市井の人達の中には、ナンセンスものと思われるものゝ多いのには閉口したものです」と回想している。
もちろんすべての警察がこのような対応をしたわけではなかろうが、少なからぬ「向こう三軒両隣のふつうの人々」が露探熱にうかされていたことはわかる。
当局による誘導もあったが、このように「ふつうの人々」が熱狂し、その熱狂の背後には危機を煽る新聞の存在があった。

「向こう三軒両隣のふつうの人々」という言葉は、著者が夏目漱石の『草枕』のあの有名な冒頭部に次ぐ箇所からとられたものだ。
漱石はこう書いている。「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。」
漱石はさらにこう続けている。「越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容で、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。」

日露戦争にまつわる「大衆」の熱狂ということでは日比谷焼き討ち事件がしばし持ち出される。日比谷焼き討ち事件のような瞬間的熱狂のみならず、「ふつうの人々」はかなりの期間に渡り執拗かつ陰湿な精神に捉われていたのである。「 住みにくい所をどれほどか、寛容で、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ」ためにはこの事実を教訓とすべきなのであろうが、むしろ逆であったようだ。第一次大戦の時には今度は当時敵国であったドイツの「独探」という言葉が使われるようになるのであった。


蛇足ながら最後にちょっと。武田徹が解説を寄せているのだが、その中に首をかしげたくなるところがあった。
「たとえば文庫本となって本書がもう一度世に問われる二〇一一年、原発事故で、原子力推進側と疑われる学者や文化人を選び出しては、御用学者、御用ジャーナリストと呼んで批判し、一方では反原発を貫いた研究者や市民運動家が祭りあげられる動きが見られた。こうして「3・11後の社会」ではやはり「非国民」を分離することで国民の一体感の再構築が進もうとしている。著者の描いた図式は今なお応用可能だ。」(pp.292-293)

確かに自分の気に入らない学者やジャーナリストを「御用」呼ばわりし罵詈雑言を浴びせる一部の反原発派は醜悪であり批判されるべきだとは思う。しかし秋山の一件に見られるように「露探」疑惑は権力側が新聞を利用して煽ったという側面が強く(武田自身もそのことを指摘している)、「反原発」派が浴びせる罵詈雑言とは性格は異なるものであろう。
政治家や、とりわけ財界人は原発事故後も公然と原発を擁護する発言をした人も多いが、それらの人々がその発言がもとで社会的に抹殺されたりその危険が及んだ人がいたのだろうか。「露探」問題と「反原発」の最大の違いはこのようなことからも明らかなように、その背後に権力の存在があるのか否かであろう。確かに反原発の観点から質の低い記事を載せた新聞等もあったが、その裏に権力側の意図があったのかといえばそうではないだろう。本書には「露探」熱を煽りまくったのが新聞であったことが再三指摘されているが、事の発端はマスメディアがまさに権力の意図通りに行ったことであったのが権力側の意図を超えたところまで暴走を始めてしまったという事例であって、これはやはり「反原発派」のそれとは区別して考えるべきではないか。
この原稿を書いていた頃には武田自身も「御用」呼ばわりされたのであろうし、そのことには同情もするが、これを現代によみがえった「露探」の例とするには不適切なように思えた。

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佐藤太郎(仮)

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