『ゼロ・ダーク・サーティ』

『ゼロ・ダーク・サーティ』

ネタバレは気にせず書いてしまいましたので未見の方はご注意を。




2001年9月11日、世界貿易センタービルに飛行機が突っこんだ映像を見せられた人々の多くが「ハリウッド映画のようだ」という言葉を口にしてしまったことだろう。
より多くの死者を出すことを目的とするなら他の標的もあったことだろうし、アメリカの政治経済を直接的により混乱に陥れようとするならば一箇所を2機の飛行機で攻撃するのではなく、複数にばらけさせたほうがより効果的だったろう。黒コゲになったペンタゴンよりも圧倒的にあの澄み渡った空を背景に映し出された光景の方がより生々しく記憶に残っているのは、死者の数に依っているのではない。あのテロは、あの「映像」を人々に植え付けることも主要な目的の一つであったのだ。そして「ハリウッド映画のようだ」という思いを抱かせることによって、ハリウッドはあの映像を奪われた。
この作品は2001年9月11日の、混乱し、絶望にかられていく人々の音声から始まるが、そこに映像はない。

ティム・ワイナーの『CIA秘録』などを読むと、CIAの歴史は失敗の歴史とでも言いたくなってくる。スパイ組織というのはその性格上成功した工作よりも失敗した工作の方が耳目を集めてしまう傾向にあるという点を差し引いても、CIAがかなりお粗末な組織であることは否定できないであろう。
「911」の責任はCIAのみに帰されるものではないが、一方でまさにCIAこそが防がねばならない出来事であったこともまた事実である。

『ゼロ・ダーク・サーティ』はハリウッドとCIAが決定的な敗北を喫したあの瞬間から始まる。決して取り返すことのできない敗北の瞬間から。


普遍的な物語の定型として、「堕ちた」主人公(ヒーロー/ヒロイン)がもう一度這いあがるというものがある。主人公が覚悟を決めたり精神状態が新たなステージに入ったことを表すために、ハリウッド映画においてはしばし(再)洗礼という形かとられる。『地獄の黙示録』においてカーツ殺害を決意したウィラードが沼から姿を現す場面はその典型である。

『ゼロ・ダーク・サーティ』には一部から「拷問を肯定している」という批判があった。
主人公であるCIAのマヤは同僚が爆死したことを知ると放心状態でひざを抱えるようにしてすわりこんでしまう。これを胎児のメタファーであると考えるならば、ここから立ち直った(生まれ直した)マヤは覚悟を決め、どんな手を使おうともビン・ラディン殺害を決意したともとれる。この作品がそのような作りになっていたなら、「拷問を肯定した」という批判は正当なものかもしれない。しかし『ゼロ・ダーク・サーティ』は英雄物語をなぞってはいないだろう。ハリウッドがすでに敗れているところから物語は始まっているのである。

当初は拷問立ち会うことに嫌悪感を隠せなかったマヤだが、次第に積極的に手を下すようにまでなる。これはあの爆死の前にすでに生じている。マヤが「洗礼」を受け直し、生まれ変わったのだとしたら、その精神には変化が生じているはずである。しかしそのような描写はない(「水」は主人公の心理を変えるためには用いられない)。確かにマヤは次第に確信を深め、攻撃的になっていっているように見えるが、その精神に決定的な変化が生じたという印象は受けない。マヤの拷問への姿勢は、目的のためならどんな手段も厭わないという地獄に踏み入る覚悟を決めたというよりは、精神が麻痺していった結果であるかのようにすら思える。

キャスリン・ビグロー監督といえば前作『ハート・ロッカー』に対してその政治性(より正確にいうと政治性の欠如)への批判があった。この批判は故なきものではなかっただろう。イラクを舞台にアメリカ兵個人の英雄的な物語を語る(かのように見える)ことは、政治的背景を隠蔽するものだというのまでは言い過ぎにしても、視界をさえぎるような誘導がされかねないという危惧を抱かせるものであった。

『ゼロ・ダーク・サーティ』も「政治性」は薄いものとなっているが、『ハート・ロッカー』とはむしろ逆の印象を与える。
そもそもマヤは、CIAは何のためにビン・ラディンを殺そうとしているのだろうか。正義の裁きを下すためか、復讐のためなのか。ビン・ラディンは「911」によってアメリカを完全に出し抜いた。同時にこの時点で彼の役目は完全に終わっている。あの日以降のビン・ラディンは象徴となったが、また象徴以上の存在でもない。たとえビン・ラディンを殺そうとも、アメリカがより安全になることも、CIAの威信が回復されることもない。そのことはマヤ自身も気付いている。だからこそ、それを指摘された時に逆にあのような態度を取ったのだろう。

本気でテロと戦い、アメリカ(人)をより安全にするためには政治の力は欠かせないものである。作中でオバマは一箇所だけ登場する。テレビで拷問を非難するインタビューを受けており、この放送を拷問を行っているCIAのエージェントたちが見ているのである。マヤらはオバマの発言にイラつき、多少の疚しさも感じているように見えなくもないが、激しく憤ったり、あるいは動揺をきたすこともない。
このことに象徴されるように、『ゼロ・ダーク・サーティ』における政治性の欠如はCIAの政治性の欠如を表し、ビン・ラディンを殺すという目的が建前としての大儀すら置き去りにしているのを暴いているかのようでもある。

この作品においてCIAが政治と対峙するのは、パネッタCIA長官をはじめとするオバマ政権の安全保障担当の幹部たちとのやりとりを通じてである。パネッタはCIAの幹部たちを愚弄しているかのような印象すら与えるが、これはイラク戦争をめぐるCIAの失態が尾を引いているのだろう。これはまたCIAの幹部にとっても同様である。CIAの幹部たちがビン・ラディンの潜伏先について煮え切らない態度を取るのは責任を負いたくないという逃げの姿勢であると同時に、安易なお墨付き(スラムダンク!)を与えてしまうことへのためらいともとれる。マヤの確信に満ちた態度は一見すると英雄的であるが、はたしてそうなだろうか。

『ゼロ・ダーク・サーティ』には事実と異なる点が多いという批判もなされている。これはこれで検証されるべきとは思うが、とりあえずここでは問わない。作品内のリアリティとして、マヤの自信が根拠のあるものかどうかが重要なのである。物的証拠はなし、あるのは拷問を含めて取られた間接的な証拠のみである。これは他国で軍事行動を取るというリスクを犯すのに十分なものであるのだろうか。本来ならば掛け値なしに100パーセントの証拠がなければならないが、マヤの「確信」にはその裏づけがあるのだろうか。マヤは「賭け」として決断を下しているようにも思える。いつの日か決定的な証拠を得る方にではなく、あそこに潜伏しているのはビン・ラディンに間違いないのだという賭けを行ったのである。この賭けには根拠がないわけではないが、また十分なものとも言い切れない。マヤ当人はそれでも構わないのかもしれないが、仮にあの作戦が空振りに終わってしまえばパキスタンでのアメリカの立場はより苦しいものになっていただろう。そしてたとえビン・ラディン殺害に成功しようとも、アメリカはすでに決定的な敗北を喫したという事実に変わりはなく、このことによってアメリカがより安全になるなどということはマヤ自身も思ってもいないことだろう。

全てを象徴しているのが、ビン・ラディン殺害作戦であろう。息がつまるようなリアリズムで描かれたこの作戦を終えても、そこにカタルシスは待ってはいない。
「どこに行く?」。マヤが流す涙は達成感によるものなのか、あるいは安堵感なのか、あるいはまったく別の感情なのだろうか。マヤのその姿はまるで生きながら棺におさめられ、葬られていくようですらある。


この作品はビグローの過去の監督作品と連続性と断絶とが見られる。
シールズの面々を描いた部分のホモソーシャル的雰囲気はおなじみのものだ。ビグローがビン・ラディン殺害を扱った作品の監督をすると聞いて警戒心を抱いた人の多くは、このような空気が全編を支配するのではと訝ったのだろう(僕もその一人だった)。一部とはいえ、ここには過去作との連続性が見受けられる。
またビグロー作品の他の特徴として、「現場」の男(たち)による英雄的活躍(『K-19』『ハート・ロッカー』)、そしてそこに孕まれる危うさ(『ハートブルー』『ハート・ロッカー』といったものがあげられる。
しかし『ゼロ・ダーク・サーティ』はこの点では断絶があるのではないだろうか。ここで描かれているのは同じく「現場」の人間(今回は主に女性)であるが、使命感に燃えた人間がそれにとり憑かれていくというよりは、ズルズルと後戻りすることができなくなっていく。刺激なしではいられなくなってしまったのではなく、また自らの行いにある大儀に奉じ続けていると信じているのとも異なっているように映る。もう引き返すことはできないのだという、業のようなものが残るばかりである。

『ゼロ・ダーク・サーティ』は『ハート・ロッカー』への、両作の製作・脚本であるマーク・ボールとビグローからの回答であるかのようだ。



プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR