『ジャンゴ』予習

もうすぐタランティーノの『ジャンゴ』が公開ということでその予習。

まずは未見だった『続・荒野の用心棒』。




原題はDjangoであり、また『荒野の用心棒』の続編ですらないのでひどい邦題といえばそうでなのだが、意味深長に思えなくもない。
黒澤明監督の『用心棒』が西部劇を輸入したものであることは一見して明らかである。『用心棒』は「侍」映画というよりは「サムライ」映画というべきものかもしれない。そして『用心棒』は「マカロニ・ウエスタン」としてイタリアに逆(?)輸入されることになる。
愛した人を失い、愛に生きることのできない、感情移入をはばむかのようなジャンゴの造形は西部劇の伝統を受け継いでいるようで逸脱しているかのようでもある。しかしまたジャンゴが「試練」を受け再び愛を見出すというのは物語の定型に留まってもいる。こういったあたりを「続」がつく邦題は暗示している……わけではないのだけれど。

あと後の作品に様々に引用されている場面も多いのだが、『アポカリプト』のあのシーンってモロに『続・荒野の用心棒』だったのね。




こちらも未見だった『マンディンゴ』。




この作品はアメリカ南部の奴隷制をリアルに描いたというよりも、アメリカ南部、そして奴隷制一般、さらには人間というものが普遍的に持ちうる「倒錯」を描いたものであるかもしれない。

冒頭で奴隷商人が関節の動きや歯並びによって奴隷を「品定め」する様はまさに家畜のそれでもある。また「純潔のマンディンゴ」同士をかけ合わせたいというマクスウェルとハモンドの奴隷主の親子の願望も奴隷を人間ではなく動物と見なしていることを表している。
では奴隷主たちは奴隷を完全に動物と考えているのかといえばそうでもない。奴隷の処女を奪ったり日常的に性の捌け口にすることはなんらうしろめたいこととは見なされていない。もし奴隷が「動物」であるのなら、このような行為は忌避されるものであろうし、逆に奴隷を人間だと認めているのなら、その残酷な振る舞いに耐えられるものではない。奴隷主はその場その場の状況によって奴隷を「動物」と「人間」とに使い分けている。それを見抜いているのが逃亡を試みた過去を持つシセロだろう。彼は同じ奴隷たちに文字の読み書きを教える。なぜ白人が黒人を学問や宗教から遠ざけようとしているのか、それは実は黒人を同じ人間だと認めているからだ、というのはまさに白人奴隷主の倒錯を暴いたものであろう。

農場の跡取り息子であるハモンドは比較的マシな奴隷主である。といってもこれはあくまで比較の問題であり、奴隷主であることには変わりはない。彼は残酷な仕打ちを避けようとはするが、奴隷制そのものへ疑いを持つことはない。ハモンドはある家に立ち寄った際に処女の奴隷のエレンをあてがわれる。彼はエレンに「惚れ」、彼女を買い求め、床を共にするようになる。しかしハモンドはエレンを「愛している」と言うことができるのだろうか。

ハモンドが初めてエレンと会った日、エレンはハモンドの足について触れる。ハモンドは幼いころの怪我が元で左足が不自由である(そして父親のマクスウェルもリュウマチにより杖をついていることにも注意が必要であろう)。皆見てみぬふりをしているなかでのエレンのこの言動はハモンドに強い印象を与える。そしてハモンドは、他の白人が奴隷の女性の口にキスをしているのを忌まわしいことだと思っていたのだが、エレンに対しては口にキスをする。しかしここから通常予想されるような、二人が真の意味で愛し合うということにはつながらない。
エレンが、もしハモンドとの間に子どもができたらその子を解放してほしいと言うと彼は怒りをあらわにする。ハモンドの頭の中には奴隷の女性と対等の関係として愛し合うなどという選択肢はそもそも存在していない。あくまでも二人は非対称な関係であり、非対称であるからこそハモンドは安心してエレンを「愛でる」ことができる。つまりエレンへの感情はペット(動物)を可愛がるかのようなものなのである。

足の悪い奴隷主の親子と屈強な体躯を誇る「マンディンゴ」奴隷ミードは肉体的には対照的である。「PC」的には危うい表現となっているが、親子の足は明らかにその精神性のメタファーとなっている。
ではこの作品が「ブラック・イズ・ビューティフル」的なものであるのかといえばそれもまた違うであろう。本作には奴隷の過酷な運命が描かれてはいるが、リアリティという観点からすると奇妙な描かれ方もしている。この作品での奴隷たちは白人の身の回りの世話であったり性の慰みものにされたりといったことが中心で、ミードの格闘を除くと綿花畑等での「労働」は描かれていないのである。このあたりを見ても、この作品は必ずしもアメリカ南部における奴隷制度のみを告発したものではない。

エレンへの態度を見ればほとんどの人間がハモンドの精神が本質において醜悪なものであることは明らかであろう。権力関係の非対称さにつけこんで、一方的にエレンを「所有」(比喩的にも文字通りにも)しているだけの人間である。しかしこれは、奴隷制という特異な制度下でのみ起こることなのだろうか。ミードは奴隷同士で闘わされることになる。その格闘(というよりも殺し合いというべきもの)を見て興奮する白人たちは、古代ローマでも、そして現在の世界でも見られるものである。ここに人間というものが持ちうる「倒錯」性を嗅ぎ取らずにはいられない。個人的にも格闘技の類は必ずしも嫌いではないもので、そこに宿る「残酷性」への嗜好というものは他人事ですませることはできないものでもあった。

繰り返しになるが、奴隷制下のアメリカ南部のみを告発したものというよりは、人間の精神に普遍的に宿る「倒錯」を描いたものだといえるのではないだろうか。その象徴が、プロット上では必ずしも不可欠とはいえない二つの近親相姦を導入したうえで残酷な展開を用意していることであろう。





で、ついでに『イングロリアス・バスターズ』も見返してみた。



確かにシリアスな部分とコミカルな部分とが遊離しているし、二つの話が溶け合うのかと思いきや最後まで合流することはないといった欠点は多々あるのだが、個人的にはタランティーノ作品では一番好きかもしれない。何度見ても「グラッチェ」のところは噴いてしまうし(それだけじゃないけど)。

なんといっても第一章が白眉という点では意見は一致すると思うが、そこでの農家の娘のシャルロット役のレア・セドゥって『ミッドナイト・イン・パリ』にも出てたのね。全然気がつかなかった。あの系統の顔立ちはタランティーノ好みというよりはウッディ・アレン好みかもしれないなあ。



プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
02 | 2017/03 | 03
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR